龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 30


さて、それでは前回に引き続きメディア構造の問題について私が考えるところを書き進めてゆきたい。メ

ディアと言っても、具体的には新聞社である。広義には系列下の放送局も含まれる。正直なところ、私は

新聞の悪口は心情的にあまり書きたくない。新聞の功罪を考えれば、“功”の部分が今日の日本において

も大きいことを認めざるを得ないからである。具体的には以下2点である。第一に新聞が日本の文化活動

において果たしている貢献度が極めて高く、日本の知性と良心の要となっている。また日本人の新聞に対

する信頼度は先進国中において最も高いといえる。それは認める。第二に再販制(再販売価格維持制)に

ついてであるが、私は個人的には各新聞が価格競争をする必要性があるとは思わない。新聞社が主張する

ように質の低下を招く恐れが高く、またそもそも新聞料金が高いとは思わない。宅配のコストを考えれ

ば、むしろ安いぐらいではないかと思う。新聞料金が払えなくて夜逃げしたという話しは聞いたことがな

い。電気代やガス料金を滞納した時にすぐに供給を止められる方が、万人に最低限の人間らしい生活を保

障した憲法の趣旨を考えれば問題が大きいのではないか。電気やガスを止められた時に小さな子供たちは

どのような気持ちになるのか。乳飲み子はどうなる。全ては親の責任なのか。新聞の価格維持についても

基本的には認める。新聞は生命に直結するものではなく、低料金で民主主義の根幹を支えているからだ。


しかしである。それでもだ。認められない部分について指摘しない訳にはいかない。認められない“罪”

が、今日においては上記2点の“功”をはるかに上回っているからだ。戦後の日本は世界的に見ても極め

て優秀な高級官僚が政治家の背後で実質的に社会を牽引してきた。高級新聞は大衆に対し、ものの見方や

考え方を植えつけることで社会の秩序を保つ役割を果たし続けてきた。今まではそれでよかったのであ

る。経済の成長が全てであったからだ。社会は単純だった。しかし私は今、その構造を問題にする。具体

的に述べると、一口に新聞と言っても地方紙やスポーツ新聞を含めるとその数は多いが、三つか四つの大

新聞があまりに長期にわたって君臨し続けていることである。新聞と言う媒体は確かに公共性が高く、一

般的な商慣習とは違った特殊な扱いをされるべきものであることは認める。しかし大新聞社という少数の

資本を、電力会社やガス会社並みに半永久的に固定化しなければならない必要性があるのだろうか。この

10年間でどれだけの大手銀行が統廃合によって消滅したのか。一昔前まで国有化されていた電話事業は

民営化によってNTTになり、その後の新規参入企業により現在、生き馬の目を抜くかのごとく激しい競

争に晒されている。郵政も民営化された。これほど移り変わりの激しい世の中にあって、どうして新聞だ

けが特別扱いされなければならないのか私にはよくわからない。自由経済自由主義の日本にあって、社

会主義的な要素が言論の府である新聞となって社会に組み込まれている。高度経済成長のパラダイムにお

いては、情報を通じて大衆意識を誘導する新聞社を少数資本に固定化させることが有効に機能したものと

思われる。なぜなら国民の共通意識が、ともかく社会を前進させる原動力になっていたからだ。二つか三

つの社説の中から自分のフィーリングに最も近いものを選んでいれば、民主主義に参加しているような錯

覚があった。とにもかくにも、それで世の中は安定し、誰もが贅沢を言わなければ家庭を維持することが

出来たのである。しかし今の時代はそうではない。世の中が根本的に変わらなければならないときに、情

報や道徳を通じて国民意識を支配している寡占化された少数資本が古い体質のままで温存され続けば、間

違いなく力の弱い国民にしわ寄せがいく。社会の新陳代謝が妨げられているとも言える。しかし、ほとん

どの大衆はその事実に気づいていない。知識人はよくわかっているが、決して口にすることはない。痴漢

や不正行為等で逮捕され、社会復帰の道が閉ざされた身も世もないような知識人だけは別である。しかし

落ちぶれてから本当のことを言ったところで誰も相手にはしてくれないのだ。世間はそういうものであ

る。大衆は大新聞社が悪を糾弾し、不正を糾す正義の機関であると思い込んでいる。平均以上の知的能力

と良識を備えた人物が、世の中の悪徳や矛盾の情報を新聞社に持ち込んで大きく取り上げてもらおうと画

策する。しかし新聞社がまともに取り合うことは少ない。その人物はわかっていないのである。新聞は何

を取り上げ、何を無視するかが利益と権威の源になっている。大衆の要求を汲み上げるのではなく、その

時々で大衆の要求がどうあるべきかを決めるのが新聞社の働きなのである。その方向性に従って何かにス

ポットライトを当てて、それ以外の部分を切り捨ててゆく。何かを煽り立て、何かを沈静化させてゆく。

誰かに何かを語らせ、誰かに何かを言わせないように無言の圧力をかける。新聞の実態とはそういうもの

なのである。それらは全て、寡占化され真の競争がない業界構造に原因があると思う。そして世の中の健

全な変化と発展を阻んでいると私は考える。しかし、これらの事はいわばタブーである。本当は言っては

いけないことなのだ。各新聞社は、民主主義の原則に則って普段激しく主張を闘わせていても、独占禁止

法や再販性のことになるとシチリー島のマフィアのごとく結託する。しかしそれだけ抵抗が大きいと言う

ことは、問題もまた大きいことの証左である。

読者投稿欄が新聞の本質を示している。常連の投稿者を抱え込んで、その新聞社の意向に沿った発言をさ

せ、さも世論がそのコメントに集約されているかのように掲載する。これも、いわば“やらせ的”なるも

のの最たるものである。高級新聞は国民の信頼度が高いだけに発行部数800万とか500万の影響力は

甚大である。しかし、そのような見え透いた手法は一般的な民間企業であれば、すぐに没になってしかる

べきものである。新聞はこれまで何十年間も同じやり方で世論を都合よく形成し続け、おそらくは今後何

十年間も変えるつもりがない。インターネットの掲示板では、ネット右翼ネット左翼の対決が飽きもせ

ずに日々繰り広げられている。あの新聞は反日的で国賊だと批判する若者、とり憑かれたように戦争反対

マントラを唱え続ける若者、確かに国防と平和は最も重要な問題ではあるけれど大衆は身近なところに

ある権力の横行にはなぜか目を向けようとはしない。どうしてだろう、格好悪いからなのだろうか。とも

かくそのような日本人の意識構造を作り上げ、その大衆意識をバックボーンにした収益システムにしがみ

ついているのは大新聞社である。

経済格差が今、盛んに社会問題の焦点にされている。しかし大新聞社の系列下にあるTV放送局は、単に

テレビに出続けているというだけで価値があるのかないのか、よくわからないようなタレントに一般的な

サラリーマンの年収相当額をわずか1週間分の仕事に対し支払っている。見させられるのは、見ているだ

けで幸せになるような低俗な番組ばかりである。一方で地方の共稼ぎ家族は、二歳や三歳の子供を夜、寝

かしつけて働きにゆく。文字通り食べることが出来ずに餓死する人、邪魔者扱いの挙句虐待されて殺害さ

れる子供たち、一家心中でこの世におさらばする家族、それでメディアは経済格差はけしからんと言って

批判する。しかし経済格差を連鎖の頂点で体現しているのは、あなたたちではないか。これ以上の欺瞞が

あるなら言ってみろ。

誤解のないように言っておくが、私は何も新聞社や放送局に恨みがあるわけではない。むしろ反対であ

る。メディアの編集者やプロデューサーはみな優秀で新聞社や放送局は、日本の貴重な文化財産だと思

う。しかし、やはり構造に問題があると思う。“罪を憎んで、人を憎まず”というフレーズがあるが私流

に言えば、“構造を憎んで、人を憎まず”だ。そもそも人が、宇宙的な時間で見ればほんの一刹那に過ぎ

ない一生において、幸福だと感じるかあるいは不幸だと感じるかは努力であるとか運や才能は、ほとんど

関係ないのではないかと私は思う。社会構造が、一人の人間の幸・不幸を決しているように私には感じら

れる。そして構造改革とは言っても、実は大衆意識の構造が最も強固なのであって、その部分にメスを入

れなければならない地点へ日本はとうの昔に来ているのだと思う。あるいは世界的にいえることなのかも

知れない。

私は、より多くの人間が幸福を感じるような最適の社会構造を模索したい。そのためには権力とともにメ

ディア構造についての言及は避けて通れない。具体的にどうすればよいかということを含めて、この件に

関して書くべき私の個人的な考え・要望は、まだまだあるのであるが長くなるので次回にする。しかし、

このようなことを書いてもいいのだろうか。かまうものか。所詮全ては、私の独り言、つぶやき、あるい

は寝言である。だから無視してくれたまえ。

私は夢の中でささやいて、夢の内側から現実を見る。

おやすみ。



死んでもいいけど、死にとうない。

書くことが、生きることなら

書かずに死ねるか。

たとえ、何一つ書かないにせよ。