龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 31


民主主義とメディアの関係について分析するとなると、事はそう簡単なことではない。私が前回述べた新

聞についての欠点は、当事者である新聞社自体がよくわかっているものと思われる。だから新聞社は、こ

とさら少数意見を大事にしようと心がけている。しかし所詮、一本の木からは一種類の花しか咲かないも

のだ。パッチワーク状の継ぎはぎ的な多様性は、元を辿れば全て一本の幹(資本)から分枝したものとい

うことになってしまう。日本に限らず、マスメディアは元々根本的な問題を孕んでいると思われる。元

来、報道の役割は正確な情報を素早く国民に伝達することであってそれ以上でもそれ以下でもない。しか

しメディアが絶対的な権威となってあまりに長期間、君臨し続けると時代の転換点にあっても既得権益

結びついた国民意識の安定に固執し、それが社会進歩の足枷となって結果的に国益を損なうことになる、

というのが私の基本的な考えだ。マスメディアと言ってもテレビと新聞では性質が異なる。テレビ報道

は、同じ局の番組であってもプロデューサーの能力や司会者のパーソナリティーによって、かなりの程度

の自由度と独自性が保たれている。また番組に対する評価が視聴率によって瞬時にダイレクトに表れるの

で、移り変わりが激しい。数字の取れない番組は、当然のようにすぐに打ち切られてしまう。これは市場

の競争原理が健全に働いていることの結果である。しかし新聞はそうではない。

新聞の発行部数なんて、あくまで公称であって本当のところは誰にもわからない。増加しているのか、減

少しているのかさえ月単位、年単位で見てもはっきりしない。1秒ごとに視聴率という数字によって祝福

され、断罪されるテレビとはえらい違いである。もちろん活字と映像の根本的な相違があるので、それだ

けで媒体としての優劣を論じる事はできないが、新聞の実態はやはり謎に包まれている。とても民意を反

映しているとは思えない。しかし編集者や記事を書いている連中の知的レベルが一般大衆よりもはるかに

高く、圧倒的な情報量を独占しているのは確かである。大衆は、新聞に接するときに批判することが出来

ず、絶えず受身の状態に置かれている。諸外国に比べて新聞に対する信頼度が高い日本は特にそうなので

ある。そもそも言論を司る大新聞社のあれだけの強大な組織が、一つの社説に集約されること自体に土台

無理がある。そこには誘導や洗脳、切捨てがあって当然である。本当は編集権を独立・分散させて分割す

るのがよいと思われるが、新聞社は収益構造上それが出来ない。新聞収益の半分近くは広告収入によって

賄われている。広告料は発行部数によって決まる。権威ある高級新聞が分割されれば、民主主義のために

はプラスになると考えられるが部数も分割されるので経営が立ち行かなくなる。よって新聞は部数至上主

義にならざるを得ないのである。上場している会社が株式を分割すると株価は安くなって購入しやすくな

時価総額は大きくなるものであるが、新聞社が編集権を分散させて分紙すると総価値は極端に小さくな

るのである。また日本の新聞社は上場していない。欧米の新聞社は上場しているようである。上場してい

ないことによって外圧を避け報道の独立を保つことは出来るが、新聞社の旧態依然とした手法が時代にそ

ぐわなくなっても変化を促す力が社会に存在しないということになる。それで国民意識は新聞の論調に引

きずられ、いくつかの固まりに区画化されてゆくことになるのである。

では、どうすればいいのか。私は何もこの世から新聞が消滅すればよいと言いたい訳ではない。また独自

のメディア論を打ち立てることを目論んでいる訳でもない。日本の将来のために、そして真の健全な民主

主義を実現するために具体的かつ現実的にどうすればよいのか、ということに関して自分なりの意見を述

べたいだけだ。

結論から言うと、新たなメディア構造を国策として作ってゆく以外にないと思われる。それでまず第一に

NHKについてである。NHKのここ何年かの不祥事は目を覆うばかりである。不明朗な会計処理や職員

の破廉恥行為、やらせなど惨憺たるものだ。競争のない巨大な組織体がいかに腐敗していくかを示す標本

のようである。NHKは民営化するべきだ。健全化への洗礼は民営化以外にないと思う。しかしNHKは

いいものを作る能力を持っている。NHKのドキュメンタリー番組は優れている。取材能力もあり製作に

対する丁寧さがある。そのようなクオリティーの高さをもっと国のために生かしてもらいたい。NHKは

関連会社に出版会社を有している。既存の新聞に対抗しうるようなものを、一方の極として作って欲し

い。日刊が無理なら週刊でも月刊でもよいと思う。もちろん受信料とは別で有料にはなるだろうが、民営

化に関わらず購買が強制になってはならないのは言うまでもないことである。“一方の極”とは、どうい

う意味かというと、報道に“公正中立”などということはあり得ないということである。社会環境は時代

の中で絶えず変化してゆく。変化は誰かの利益を損ない、新興の誰かを益する。よって変化を見る視点に

公正も中立もないのではないか。誰の視点によって見るかということが全てである。NHKはあくまで国

家的な体制側視点の極であってかまわないと思う。かまわないのではなく、そうであるべきだと私は考え

る。

それでは、もう一方の極は何であるべきかというと市民の視点である。これが今の日本には決定的に欠け

ている。新聞社を中心とするメディアによって欺瞞的に作られ広められているものだ。私はこの市民の視

点をインターネット系の企業に担っていただきたいと考える。その代表はヤフーである。方法がインター

ネット新聞であるのは言うまでもない。インターネット新聞はもうすでに存在するのかも知れないが、既

存の高級新聞に対抗し得るようなものにはなっていない。インターネットやヤフーについて書くと長くな

ってしまうし、私自身詳しくないので恐縮ではあるが、今後の日本にとって重要であると思われるのであ

えて述べたい。私はヤフーの株をごくわずかであるが持っている。よって一株主として、現在のメディア

環境におけるヤフーを考察したい。しかし見当外れや間違いがあれば、それらは全て私の無知、無明、勉

強不足によるものであることを先にお断りしておく。ヤフー・ジャパンは10年前に上場した。ITバブ

ルの走りで、最高1億円まで株価は高騰した。バブル崩壊後も好調な業績を背景に半期に一度の株式2分

割を続け、時価総額を維持し続けてきた。私は2006年2月2日にヤフー株を15万2千円の単価で1

株、同じく2月14日に13万5千円の単価で1株購入した。その後3月末に株式の分割があり私の持ち

数は4株になった。2006年の5月18日に5万9700円の単価で1株購入した。計5株である。そ

の後はまったくヤフー株について売買していない。またヤフーの株式分割も、その後行われなくなってし

まった。平均取得単価は、約7万円であり現在の時価は約5万円である。1年半ほどヤフー株の推移を追

ってきた感想を言えば、業績は悪くはないのに株価の頭打ち感が強い。これはどう見ても社会構造的な壁

にぶち当たっているとしか考えられない。その構造障壁の正体が何かというのが問題なのである。誤解の

ないように言っておくが、私は何も僅かばかりの含み損を取り返すために書いているのではない。インタ

ーネット企業が世の中に華々しく登場した頃は、何かが変わってゆくのではないかという期待があった。

それがITバブルの大きな要因であったことは間違いない。しかし10年経過してみると、結局何も変わ

らないことがはっきりしてしまった。ヤフーはメディア配信を特徴とする企業である。日本的な風土の中

においては、既存の権威との共存共栄を模索しなければならないのかも知れない。しかし一投資家として

言わせてもらえば、それでは面白くないし、一国民として見ても日本のためにはならないのである。私は

ヤフーの悪口が言いたいのではない。可能性を潰してゆくような日本的構造を問題にしているだけであ

る。インターネットと放送の融合に関して、盛んに取りざたされているようである。確かにホリエモン

楽天が挑んだようにインターネット企業が放送局を買収したり、業務提携が進行すれば莫大な広告マーケ

ットをインターネット企業は獲得できるのかも知れない。しかし私に言わせれば、それでは単にパイの取

り合いをしているだけで日本全体の国益から見れば何ら生産的なところがないものである。先に書いたよ

うにインターネット新聞を有料であってもかまわないからもっと充実させていただきたいものである。単

にどこかから仕入れた情報を配信するだけでなく独自の取材によって、独自の構成で新しい新聞を作って

欲しい。それも市民の利益を代表してである。NHKの新聞発行も含め、これらメディアの再編のために

は、記者クラブなどという時代錯誤であり、閉鎖的な制度は即刻廃止すべきであることは言うまでもな

い。私の言っている事は理想論に過ぎないのであろうか。ヤフーは外資系だから制約があって不可能だと

いうなら楽天であっても一向に構わないのであるが、インターネット新聞は、すでに相応しい環境が整っ

ているのであるから既存勢力の圧力がなければもっと普及していてもよさそうなもののはずである。イン

ターネットはダイレクトに読者の反応が返ってくる。よって、そこに高度な知性が備われば、斬新で真に

社会を変革していけるようなものが出来るはずだと私は考える。既存の高級新聞のように権威主義的で高

圧的な論調は結局、社会変化の振幅と方向性を調整しながら既得権益を守っているだけであると大衆はい

い加減に知るべきである。