龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 33

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12月24日のクリスマス・イブに映画『マリア』を見た。イエスの母マリアと夫ヨセフのイエスが誕生

するまでの物語である。素晴らしい映像だった。マリアを演じた若干17歳の女優“ケイシャ・キャッス

ル”の白バラのように輝く純粋な美しさを私は生涯忘れることがないであろう。


私は、イブの日を選んでこの映画を見に行ったわけではない。二週間ほど前の夜、運動不足解消のために

ウォーキングをしていてキリスト教関連施設の前を通りかかった時に、壁の掲示板に貼られていた『マリ

ア』のパンフレットをたまたま目にしたのである。それで時間のある時に見に行こうと思っていたのだ

が、うっかり忘れていた。三連休、初日及び二日目の22、23日は息子が泊まりに来ていた。当初23

日に泊まりに来る予定であったが、24日の朝にはサンタさんがプレゼントをくれているはずだから、そ

のプレゼントを早く見たいという息子の希望で一日繰り上げることになった。それでイブの日が一日空い

たのである。23日には息子をホビーショップに連れて行って、小さな発砲スチロール製のラジコン飛行

機と手品用品を買った。その時にサンタさんはイブの日には何をくれる予定なのかと息子に聞いたとこ

ろ、「たぶん将棋やと思う。」という答えが返ってきたのには思わず苦笑してしまった。息子は普段私に

は、任天堂のWiiが欲しいだの贅沢なことばかり言っているのに、クリスマスプレゼントに将棋盤をも

らうことを楽しみにしているのか、随分と落差があるじゃないかと思ったからである。息子は小学校1年

生だが、放課後いきいき学級で誰かに将棋を教えてもらっているようである。ある日、息子がいきなり

「パパ、将棋をしよう」と言って駒の並べ方から動かし方まで全てマスターしているのにびっくりした。

対戦して見ると下手ながらも打ち筋は結構、様になっていたものだった。それで「サンタさんに将棋もら

って、マンションで誰とするんや。」と聞くと「ママとする。」と言う。「ママは将棋、出来へんやろ」

と言うと「僕が教えたる、ママも覚えるて言うてる。」などという言葉が返ってくるものだから、私はま

たまた苦笑せざるを得なかった。


私は取り立てて自慢できるものが何もない地味な男である。しかし人には決して言わぬことではあるが、

それは間違って言うようなことがあれば狂人扱いされるのは目に見えているからであるが、私の日常はど

こか奇妙な空間の捻れというか、天上世界と符号する徴のようなものに結びついている。もちろんいつも

ではないが、そのように感じられる瞬間がある。正直に告白すると、時に自分には映画『ベルリン天使の

詩』に登場するミカエルだかガブリエルだか知らないけれど背中に大きな白い羽の生えた天使に見守られ

ているのではないかと想像することがある。あるいは自分自身が天使の一員ではないかという妄想に陥っ

たりもするけれど、さすがにそれだけはあまりに馬鹿げているのですぐに打ち消して正気に戻ることにし

ている。正気に返って冷静に見晴らせば、私の人生の、現実の、日常のどこにも天使的な痕跡のかけらす

ら存在しないからだ。みすぼらしいものである。しかし私が沈思黙考し深く感じたものを表現しようとし

た時に、書き表そうとした時に、確かに天使は私の現実に侵入しそっと何事かを囁くのである。天使の息

吹を受けて身の回りの世界はそれまでとは明らかに違ったものに見え始める。道端に落ちている小枝や電

柱のポスターや浮浪者の虚ろな眼差しですら、何かしら意味ありげな啓示となって生き生きと内側から自

らの存在を主張しているように感じられるのである。その時に私は私を遊離し、卑俗な現実に適応しよう

とする私を離れ、本来あるべき、より私なるものへ、私のエッセンスでありイデアへと向かうのである。

だから表現が全てなのである。少なくとも私にとっては。表現は虚構であるとともに、誰かを騙そうとし

ない限りは私の魂の真実であり、天使が舞い降りる依代でもあるのだ。しかし肉体の現実的な目で見れ

ば、自分が他者と異質な者であるところの正体を晒すことほど恐ろしいことはない。実際にはそれほど異

質でないことはよくわかっているのであるが、それでも捉えられた宇宙人のようになって両手を抱えら

れ、どこか森の奥深くへ連れていかれるかのような根源的な恐怖が付き纏う。私の人生は結局その二つの

極の、人間世界と天上世界のせめぎ合いであり、騙し合いなのだ。


それで、私は何の話しをしていたのであろうか。そう、映画『マリア』についてである。とりとめのない

ことを何で私はくどくどと語っているのだ。12月24日が一日空いたのでどこかの寺にでも散策に行こ

うかと考えながら掲示板のポスターで見た『マリア』を思い出し、年末にでも見ようかとネットで検索し

て見ると、もうほとんどの映画館で上映は終了していたのである。都心から外れた場所にある一館だけが

レイトショーで上映していたがそれもあと数日で終了する予定であった。それで、あわてて私はその日に

『マリア』を見に行くことにしたのである。クリスマス・イブの日にキリスト生誕の映画を見に来ている

人は数えるほどしかいなかった。カップルは何とゼロであった。この映画の素晴らしさは、監督(キャサ

リン・ハードウィック)が女性であることによるものだと思われるが、イエスの両親であるマリアとヨセ

フの人間としての苦しみや怖れ、勇気と喜びを描きながら、そこに清らかな聖性が溢れる泉のように映像

を通して伝わってきたところにある。これは女性の視点である。神の摂理を表現していても、眼差しは肉

体としての人間存在と地上世界に優しく注がれている。私はマリアがイエスベツレヘムの貧しい羊小屋

で出産するシーンにいたく感動してしまった。天に輝く三つの星が一列に並んで強烈な光線となってイエ

スが誕生する羊小屋を貫く。激しく苦しみながら息むマリアの両脚から赤子のイエスが取り上げられた瞬

間に私は自分自身が光に包まれているかのような感覚を味わった。そして天使の存在を意識した。その時

に理解したのである。私は、この日この映画を見るために導かれたのであると。映画館の中で突如として

私は、これまでとは生き方を変えなければならないと感じた。私は、それらしく生きなければならない。

それらしくとは、自分らしくと同義であるが少しだけニュアンスが異なる。自分らしく生きることは困難

であるがゆえに価値がある。自分らしく生きようとすれば人生そのものが本当の自分を見出すための手段

となるからだ。真の自分らしさに到達することは永遠に続く茨の道であり、もしかすれば全ての人間はそ

のために生かされ観察されているのかも知れない。それらしくとは私がその時に悟った感覚で言えば、天

使という超常的で外部的な存在の目を意識しながら、自分らしく生きようとするということである。これ

は西洋人的な道徳観念に通じるものがあるのかも知れないが、日本人の精神性にも必要な規範なのではな

いであろうか。私は恐れずに勇気をもって、それらしく生きなければならない。これは私にとって天啓の

ようなものであった。つまらないことに、いつまでもかかずらわっているべきではない。程度の低い世の

中の、程度の低い人々と波長を合わせて生きていくのはもうこりごりだ。そういうのはとても疲れるので

ある。


今、思い返して見ると映画『マリア』を見たことは私にとってちょっとした宗教体験であった。しかし私

はクリスチャンではないし、今後クリスチャンになるつもりもない。そもそもイエス・キリストが実在し

たであろうことは信じているが、マリアが処女懐胎したなどということはまったく信用していない。生物

学的に絶対あり得ないことだからである。同様に聖書に書かれているようなイエスが成したとされる数々

の奇跡も否定する。湖の上をふらふらと歩いたり、死後三日たった後に復活するなんてあり得ない。その

ような伝承を本気で信じることはキリスト教の本質を曇らせてしまうのではなかろうか。私はキリスト教

の本質とは、神が人間として地上に生まれたことと、迫害され処刑されたことの二点につきるのだと思

う。イエスが子供時代から青年へと成長するに及んで自分自身をどのように考え、認識していったか、異

質な者であることの怖れや苦悩はなかったのであろうか、私には奇跡よりもそれらイエスの内面に関心が

あるし、また宗教的価値もあるものだと考える。だから『マリア』の続編としてイエス・キリストの生涯

を是非、美しい映像で見せて欲しいと思う。でも難しいであろう。少なくともマリアやヨセフに注いだよ

うな視線でイエスを描くことは許されないであろう。人間、イエス・キリストを解明することは最も危険

なタブーだからである。しかしイエス自身が当時のタブーを犯す存在であったがゆえに危険視され処刑さ

れたのだから、世界はなんとも皮肉なものである。



日本では12月24日のイブの日にまた痛ましい事故が起きた。走行中のマイクロバスから小学生男児

転落し、後続車に轢かれて死亡した。ちょっとした不注意で子供が死亡する事故が最近の日本には多すぎ

る。私はやるせなさとともに憤りを感じる。人間誰でも物忘れや不注意はある。しかし誰かの命に関わる

ことは不注意では済まされない。このようなミスや不注意から子供たちの命を守るにはどうすればよいの

だろうか。そこで不注意が発生する人間の意識というものを分析する必要がある。我々が、夜眠りにつく

時に翌日に重要な行事や約束があってどうしても早起きしなければならない状況では通常目覚まし時計を

セットする。しかし目覚まし時計のアラームに頼らなくとも、どうしてもある時刻に起きなければならな

いという意識があればアラームが鳴る直前に目が覚める。人間寝ていても時間が正確にわかるのである。

これは不思議と言えば不思議であるが、超能力というほどのものではなく誰もが当たり前のように備えて

いる能力である。ところが深酔いして眠りについたり、風邪を引いていて体調が悪かったりするとこの体

内時計が狂ってしまう。ひどい時には夜か昼かすらわからなくなる。何が言いたいかと言うと、我々が起

きていて反復的に繰り返す日常の動作はたいてい無意識に行っているものである。無意識に行うというこ

とは寝ているのと似た状況にあると言える。だから無意識に何かをしていても、そこに命の危険が伴うよ

うな不注意やミスがあれば本来アラームが鳴るはずなのである。しかし今の日本のようにこれほどまでに

つまらない不注意で幼児や子供たちの命が失われている状況は、体内時計に相当するような危険予知能力

が壊れているのだといえる。夜か昼かすらわからなくなっているのだ。これは非常に重要なことだと思わ

れるので、機会があれば、いや今書くべきものを書き終えた後に、ある本をテキストにして考察を深めて

ゆきたい。