龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 43


書きたい事は他にもいろいろとあるのだが、前回の補足説明をさせていただくことにする。真面目という

漢字について、その表記と概念について思うところを述べた。固有の言葉における表記の問題としてでは

なく、漢字一般に関して、漢字は権威的であり不要ではないかという批判が一部にある。前回の論述はそ

のような漢字不要論をベースにしたものではないのであるが、改めて今回私が漢字を必要だと考えるとこ

ろの理由についてまとめてみたい。

今日、パソコンの広範な普及によって文章を作成するときに手書きをすることが少なくなった。キーボー

ド入力をする際に言葉の音声を一旦、ローマ字か仮名で入力してから漢字に変換する。ならば、何故漢字

に変換する必要があるのかという問題である。分節を区切って正しい漢字を選択する作業は、はっきり言

ってかなり面倒だ。ローマ字やひらがなのままエンターキーを叩いて確定しても同じ文章であるはずだ

し、その方が何倍も効率的であると言える。では変換する作業のプロセスにおいて無意識的にであれ権威

を求める心理が働いているのかと言えば、人の事はわからないが、私にはないと言い切れるように思え

る。それでは何故、手間を惜しまずに漢字変換するのかということの分析をしてみる。

先ず第一に、最も基本的且つ物理的な要因であるが文字数の節約である。言語学的には瑣末な問題に過ぎ

ないのかも知れないが、現実問題としては無視できない。たとえばヤフーのブログであれば一回での投稿

における文字数の制限が5000文字である。5000文字を超えると分割しなければならないので面倒

である。あるいは雑誌や中吊りなど限られたスペースでの広告コピーを考えるならば、その効果を最大化

させるためには当然漢字を使った方が一文字当たりのコストを低く抑えることが出来るので得であると言

える。

第二に読み易さであって、これが漢字肯定論者と漢字否定論者の間で意見が対立するところの問題である

ようなのだが、少なくとも私は読んでくれる人が読み易くなると信じて相手の立場で漢字に変換している

のである。子供向きの絵本がひらがなだけで書かれているのは漢字を知らない子供の立場で作られたもの

だからという以上の意味はあり得ず、漢字の必要性とは別の問題である。相手の立場や心情を無視したひ

らがな文の究極は、誘拐犯の身代金要求文のようなものである。

「あすのあさ、はちじまでにごひゃくまんえんよういしろ。そろわなければ、おまえのむすめのいのちは

ない。」

自分だけの身勝手な要求を突きつける時には、漢字に変換する“思いやり”すら不要なのであり、その文

章が相手に与える恐怖感はより一層増幅されることになる。これは、漢字が存在する文化の習慣(日常)

を裏返したところに発生する心理効果に過ぎないのであろうか。

第三に同音異義語についてであるが、そもそも日本語に同音異義語が多いのは発声音素を最大限に生かせ

ていないからだという主張は確かにその通りなのかも知れないが、そんなことを言われても困る。少なく

とも私の責任ではない。日本語で何かを表現し、書き表そうとすれば所与の言語的条件下で文章を組み立

てざるを得ないのである。ただし仮名だけの文章が意味を読み取れないかというと決してそのようなこと

はない。例をあげる。

「わたしは、こうかいしたことをけっしてこうかいしていない。」

これだけの短いセンテンスであっても最初の“こうかい”は“公開”か“更改”または“航海”であり、

二つめの“こうかい”は“後悔”であることが自然にわかる。よってその前後に文章があれば平仮名だけ

の文章であっても同音異義語は読解の妨げにならないと言える。しかしそれを言うのであれば、たとえば

信号機の三つの照明は左から青、黄、赤と並び順が決まっているのであるからあえて三色で点灯させる必

要がないということにはならないか。公衆トイレの男女別のマークもまた同様にデザインだけで違いがわ

かるようになっているのだから、赤や黒で色分けする必要がないということになる。しかし標識や信号、

言語表記も全て同じだと思うが、一つの意味を二つの方法で同時に指示したからと言って特に困ることは

ないのである。漢字が権威だと言うなら、仮名だけの文章は民主的かもしれないがそれはとても不親切な

民衆主義である。

もう一つ同音異義語について言えることは、仮名音の変換候補をパソコン画面に表示させたり、頭に思い

かべることがその言葉の意味や用法を考える文章作成上の推敲に結びついている。よって読み手によって

だけでなく書き手にとっても漢字変換の手間は決して無駄ではないのである。

第四に漢字は名前や地名などの固有名詞においても使われるということである。郵便物の宛先住所が平仮

名だけで書かれていれば、都道府県や市、町名との分節箇所がわかりづらく郵便局員の配達効率が大幅に

悪くなることは容易に想像できることである。

第五に脳がどのように漢字を処理・認識するかという観点からの考察である。私は速読を習っていたこと

があった。どのような訓練をするかと言えば、フィジカル的には視野角を上下、左右に拡げて脳が一度に

多量の文字を取り込めるようにする。また眼球運動によって素早く視点を動かすことが出来るようにす

る。読み方に関して言えば、読み返し(一度読んだ箇所に戻って再読すること)をしない、頭の中で音読

しないということがポイントである。頭の中での音読を省略することは読書スピードを高めるために避け

て通れない技術である。コリン・ウイルソンの本に書かれてあったことだが、古代人は文章を音読しなけ

れば文意を理解できなかったらしい。この場合の音読とは頭の中での音読ではなく実際に声に出して読む

ことである。人間は文章を黙読できるようになるまでにも進化の年月を要したのである。しかし現在、頭

の中での音読を取り去ることは誰でも訓練によって出来るものである。よって脳が文字を音から意味へと

翻訳して認識するということは必ずしも言えることではないのである。また速読における目の動かし方で

あるが、2行か3行を一度に上(左)から下(右)まで視点を移動させて読む。そして次は視点を上

(左)に戻さずに下(右)から2~3行まとめて上(左)へと移動させる。また上(左)から下(右)に

ということを繰り返す。これを波読みという。そのような読み方で全体の文意を理解できるのかと思われ

るかも知れないが、六割ぐらいの理解度でなら読み取れるのである。この訓練を繰り返してゆく内に、

段々とコツのようなものがわかってくる。それは漢字に意識を集中させていると読むスピードが上がって

くるということである。漢字表記だけから、漢字間の繋がりが推測できるようになる。この場合における

漢字の役割は表意文字でも表音文字でもなく、単に全体図形の中でのアクセント、あるいは引っ掛かりの

ようなものであると言える。よって漢字は速読のような高度な脳の使い方という観点から見てもわかる通

り、今日の我々の生活における密接不可分な記号になっているのである。

以上である。