龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 42


日本語の難しさであろうか、ある一つの言葉が使われる状況や場面によって意味合いが肯定から否定へと

微妙に転倒する場合がある。

私には昔から気になっている言葉がある。それは「真面目(まじめ)」である。言うまでもなく、日常的

に最も多く使われる部類の言葉である。

本来の意味は「誠実で、信用できる」という肯定の言葉である。用例としては職場で「彼は真面目に頑張

っていますよ」と直属の部下について上司に評価・報告する場合などが一般的な“真面目”である。しか

し同僚たちが仕事が終わった後、居酒屋でビールやウーロン杯を飲みながら上司について

「あの人は真面目だからな」と言うときには微妙に否定的である。「融通がきかない、面白みに欠ける」

というニュアンスの婉曲的な表現に変化している。またその場面における“真面目”の用法には微かな権

力批判が含まれている。

だから誰かに面と向かってただ一言

「真面目だなあ」とか「真面目な人なんですね」と言われてもあまり素直には喜べない。どこか軽く見ら

れているような、あるいは揶揄されているような響きがあるからである。私が「真面目」という言葉にこ

だわるのは、これまでの人生において否定的な意味合いで真面目だと称せられることの方が圧倒的に多か

ったからである。思い返せば、肯定的な意味で誰かに「真面目だ」と褒められたことはほとんどなかった

ような気がする。だから私は積年の恨みをもって「真面目」という言葉を自分自身の実存形態を追及する

かのごとく、人知れず密かに研究してきたのである。私が自己分析するところの、私の“真面目”には融

通がきかない部分もあるかも知れないことは認めるが、面白みに欠けると言われる覚えはない。たとえば

昨今流行りの“お笑い芸人”を例に挙げて説明すると、一流の人間であれば普段はきっととても無口だっ

たり、シャイであったりする筈である。“お笑い芸人”の知り合いがいるわけではないけれど私にはわか

る。“真面目”に相当する基本軸がしっかりしていなければ、そこからちょっとずれたところにある笑い

を生み出すことは出来ないからである。笑いとは落差のエネルギーが作る爆発力なのだと思う。それで、

そのずれ加減の距離感や構成力が芸人のセンスであり才能なのだと思う。私の“真面目さ”は誰かに退屈

だと蔑まれるような性質のものではない。むしろ私は誰よりも面白いのである。ならば笑いの源流にもな

る“真面目”の真髄とは一体何なのであろうか。

辞書から調べられる字義としての“真面目”とは、真剣な面差しであり、目付きである。ここで問題とな

るのは“真面目”が“まじめ”という音声と意味(漢字)を同時に表しているということである。“真面

目”は表音文字であり表意文字なのだ。“まじめ”という音に“真”と“面”と“目”の記号が当て嵌め

られたのだ。意味を無視すれば“魔時女”や“麻自馬”でもよいのである。ならばどうして真面目なの

か。私の勝手な解釈では、“真”の“面”に“目”を向けることが、要するに物事の本質に意識を集中さ

せることが“真面目”なのである。世の中の全ては、特に人間関係は真理や本質から幾分ずれた地点でバ

ランスを取って成り立っている。これは種々様々な人間が共存する社会を成り立たせるために必要不可避

の知恵なのであろう。本質を認識し言明することは、直接太陽を見るようなものである。人間社会は、太

陽光の照り返しの恩恵によって、すなわち本質(太陽)を見ないことで相互関係が保たれているのであ

る。しかしどうしても本質(太陽)を見ざるを得ないときに戦争や革命が起こるのではないのであろう

か。私は戦争や革命を望んでいるわけでもないのに、直接太陽を見過ぎるのだ。天高く飛翔し、ついに太

陽に焼かれ落ちるイカロスのように。

だから私のような人間は、「真面目だなあ」と言って揶揄され排除されなければならない存在だと言え

る。“真面目”が肯定的に使われるのは組織や家庭の中で利益追求など一つの目的のために力を結集しな

ければならない場においてである。生産的でない真面目さは鬱陶しいのである。その辺は我ながらまった

く同感である。音声としての“まじめ”の語源を調べても、「まじまじと見る」が変化したものが「まじ

め」となっている。無意味にまじまじと見られるのは気持ちのいいものではない。ストーカー的だ。

しかしよくよく考えれば“真面目”や“まじめ”は、やはり顔付きや目付き、またはじっと見る様子から

生まれた言葉であると思われる。そうであれば、そこに言葉の発生と社会進歩の関係を見ることができ

る。太古の昔、いつかはわからないが、人間の表情や眼差しが真剣味を帯びる瞬間が時としてあった。一

点をじっと見つめるような様子である。何かをまじまじと見ているようだ。そこから“まじめ”という言

葉が生まれた。その後、人間は一ヶ所に集落を作って定住するようになり農耕や牧畜が始まる。集団生活

の中で分業や協業の労働が発生する。それら社会生活の進歩に伴って当初は見掛けに過ぎなかった“まじ

め”という言葉が歴史の中で徐々に内面化され、“まじめ”の概念が形成されてきたものだと思われる。

もちろん私の推理なので正しいかどうかはわからない。あるいはまじめという言葉が出来たのはもっと最

近のことなのかも知れない。しかし、いずれにせよ言葉の誕生は、人間が日常生活の中でいつもとちょっ

と違った様子や雰囲気を本能的に察知し、音声化したものが出発点だと言えるのではないのか。チンパン

ジーやゴリラにまで遡っても同様だと思われる。言葉の語源と現代的に使われる概念の間には社会変化に

要した悠久の時間が流れている。野生動物の生存に“真面目”も“不真面目”もない。生きるということ

には本来、“真面目”以外にあり得ないのだ。人間だけが文明の発達によって死の恐怖から遠ざけられ人

生に余裕と弛緩が生まれた。それゆえに集団生活の中で真剣な者を称えたり、揶揄する価値基準として

“真面目”の概念が発生したのであろうか。いずれにせよ“真面目”であるかどうかは自己評価ではなく

他者の評価に帰着するところの命題なのだ。しかし、このように考えると“真面目”がまたよくわからな

くなってくる。他者評価をまったく度外視すれば、真面目概念の存在理由が消滅するからである。結局私

は“真面目”と“不真面目”の境界を超越したところにある倫理を求めているような気がする。それま

た、よくわからないのだけれど。

わからないながら、私は勉強を教えている最中、いつもふにゃふにゃしている息子に対して

「こら、真面目にしろ。」

とばかり言っている。



新院呵呵(カラカラ)と笑はせ給ひ、「汝知らず、近来(コロ)の世の乱れは朕(ワガ)なす事(ワザ)なり。生

(イキ)てありし日より魔道にこころざしをかたぶけて、平治の乱(ミダレ)を発(オコ)さしめ、死(シシ)て

猶朝家(チョウカ)に祟(タタリ)をなす。見よ見よやがて天(アメ)が下に大乱を生ぜしめん」といふ。


崇徳院はからからと声高くお笑いになって、「お前はわかっていないのだ。近ごろの世の中の乱れは、自

分のしわざである。生きていた時から悪魔の道に心をうちこんで、平治の乱を起こさせ、死んだのちもな

お皇室に祟をしているのだ。よく見ているがいい。やがて天下に大乱を起こさせてみせるぞ」という。


雨月物語全釈』 野田寿雄著 武蔵野書院