生きること、書くこと62
最近見た映画で、最も素晴らしかったのはデヴィッド・クローネンバーグ監督作品の『イースタン・プロ
ミス』だ。
ロシアンマフィアの世界を描いた映画である。一口で感想を言うと身体が震えてくるような恐ろしさがあ
った。映画の内容がではない。“才能”が恐いのである。世界的な本物の才能は見るものを震え上がらせ
るような力を持っている。
その昔デヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス、ローラ・パーマー最期の七日間』を劇場で見た時
に、ラストで主人公を演じたカイル・マクラクランが赤いカーテンの部屋で確かふわりと浮かび上がる場
面があったかと思うが、私はその悪魔的な映像に心底驚愕してしまってこんな恐ろしいものが一般公開さ
れてもよいものかと憤慨と畏敬が交じり合ったような奇妙な感情を味わった。『イースタン・プロミス』
にもどこかそれに近いものがあった。
ナオミ・ワッツが美しかった。本当に綺麗だった。何て言うか悪に照り映える美しさだ。しかし何よりも
マフィアを演じた主人公ヴィゴ・モーテンセンの演技だ。これぞ才能である。見るものを震え上がらせる
力だ。
『イースタン・プロミス』は、“悪”を描いた映画である。悪とは暴力ではない。
悪とは観念であり、暴力はアクションに過ぎない。この映画が恐ろしいのは、クローネンバーグ監督やナ
オミ・ワッツ、ヴィゴ・モーテンセンなどが悪とは何かをよくわかっているからではないかと私は思っ
た。東欧世界には人身売買のような絶対的な悪が存在する。
日本には悪を描ける映画監督はいない。また悪を演じ切れる俳優も一人もいない。日本人は悪とはイコー
ル暴力のことだと勘違いしているからではないだろうか。観念としての悪を誰も知らないのである。
それは取りも直さず、日本社会が平和であることの証明である。しかし必ずしも良いことだとも言い切れ
ない。悪の無いところには、“善”もまた存在しないからである。
要するにナオミ・ワッツのような“美”が精神にも肉体にも宿らないということだ。
悪も無ければ善も無く浮島のごとく流れゆくは日本という国家なりけり。