龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

自炊代行について

「自炊」という言葉に、自分で飯を作るということ以外の意味があるとは知らなかった。よって「自炊」代行 賠償命令(9月30日、朝日新聞夕刊)などと言われても、何のことだかわからない。記事を読んで遅ればせながら知ったことには、紙の本を裁断、スキャンしてパソコンに取り込み、電子書籍化する行為を何故かわからないが、世間では「自炊」と呼ぶらしい。それでその自炊の代行ビジネスで著作権を侵害されたとして、7名の作家、漫画家が代行業の取り止めと損害賠償請求をしていた裁判で、9月30日、東京地裁は作家側の訴えを認め、2社の代行業者に計140万円の賠償と業務の取り止めを命じたという。事の経緯は、2011年9月に大手出版社7社と作家122人が代行業者100社に対して業務の中止を求めていたが、今回の被告代行業2社が事業を継続させていたことから、作家の浅田次郎氏、大沢在昌氏、林真理子氏、東野圭吾氏の4氏と漫画家の永井豪氏、弘兼憲史氏、武論尊氏の3氏、計7氏が昨年の11月に提訴し、その第一審判決が下ったとのことだ。
さて皆さんは、この判決について、どのような感想を持たれるであろうか。私は個人的には釈然としないと言うか、大いに不満である。著作権という言葉の権威的な響きだけで、無条件に賛成して欲しくはないとも思う。確かに日本の隣国には、日本を含めた他国の先進技術やデザインなどの模倣、窃取だけで成り立っているような、著作権という概念すら未発達である韓国や中国が存在し、それらの国の猛々しくも傍若無人な振舞で日本は多大な損害を蒙ってばかりいるので、日本人は著作権と聞くと、何としてでも守らねなければならないと反応してしまいがちであることは理解できる。しかし、今回の「自炊」のケースは、それらの下賤な行為とは中身がまったく異なるものである。自炊代行業者が小説や漫画をコピーして、不正に販売するということであれば、確かに明らかな著作権の侵害であり、中国や韓国のような国でゲームソフトや音楽CDの海賊版がすぐに作られて、安値で流通するのと同じであるが、そうではない。あくまでも自炊代行業者は、純粋にスキャンの手間を代行することをビジネスとしているだけであり、常識的に考えても違法性があるとは言えないものだ。出版社や作家側からすれば、そのような代行ビジネスが、やがては違法販売に流れるに違いないという予測はあるのであろうが、予測を取り締まったり罰したりすることは間違っている。隣国とは違って日本のように法律遵守のモラルが高い国は法のあり方も性善説であるべきだ。個人がコピーしたり、スキャンして利用することが認められているものが、どうして、その手間を第3者に委託することが不法行為となるのか。私にはまったく理解できない。自分の金で買って自己の所有物となった本を裁断して、たとえば字が小さくて見え難いからと拡大コピーして所持したり、スキャンして電子書籍化することは、その個人の勝手であるはずである。しかし大部の書籍を全部、1枚1枚コピーしたり、スキャンするようなことは、現実的には到底、出来るものではない。それも1冊や2冊であればまだしも、一般の個人レベルでも数百冊や数千冊の蔵書を持っている人は、世の中にはいくらでもいる。よってデジタル化の需要は限りなく大きいものである。それを個人で、しこしことスキャンなどしていれば、それだけで人生は終わってしまうであろう。年を取るにつれ、小さな字は見えなくなってくるし、光度の弱いところでは本を読み辛くなってくる。電子書籍化は、それらの問題を解決してくれるというのにあまりにも不親切ではないのか。私自信、電子書籍キンドルをアマゾンで購入して1年ほどになるが、やっと手に馴染んできたところである。それまでは外で本を読む時は、常にその場所の光度に制約されたが、今では夜に薄暗いバーの中でも、バックライトのついた画面で酒を飲みながら読書が出来るようになったので、大変に満足している。しかし、如何せんソフトの数が少ない。私の希望では、ちくま学芸文庫ニーチェ全集とか、中村元氏の仏教大辞典とか、新約聖書とかその他諸々を220グラム位のキンドルに保存して持ち歩きたいのである。しかしベストセラー本以外は中々、デジタル化の対象には成り得ない。だからスキャンしてデジタル化の作業が必要になってくるが、そんなことを自分自身でやろうとするようなことは、徒歩で世界一周するぐらいの覚悟が必要である。そもそも日本の文化とか、日本人全体の知性のレベルなどを考えれば、ごく限られた一部のベストセラー本だけが紙の本や電子書籍で読まれて、誰もが似たような考え方を有していたり、体制や権力に流されやすい批判能力の低い状態に留まることは、国家的な視点で見ても最終的には国力が衰退してゆくことにしかならないと思う。私は、本当は国家プロジェクトとして、新刊、既刊を含め、この世の(少なくとも日本の)ありとあらゆる全ての書籍をデジタル化して欲しいぐらいなのであるが、現実には予算的にもそうはいかないであろうから、せめてその穴埋めに「自炊代行」ぐらいは認めるべきではないのか。私の言っていることは壮大に思われるかもしれないが、実は私は、それほどの読書家でもないものである。むしろどちらかと言えば、読む数自体はかなり少ない方である。読書の方法にも様々あるのであろうが、私は読むという行為は一旦、咀嚼してからその内容を主体的に考え直すことだと思っているので、たくさんの本は物理的に読み切れない。読むよりも、考えている時間の方が長いからである。私のようなタイプははっきり言って生産的ではないし、社会にとってもあまり有用な人間にはなり得ないとも言える。私とは反対に大量の書籍を、それこそコンピュータにスキャンして取り込んでいくような読み方をする人も多いであろう。いずれにせよ現代的には、書籍デジタル化の技術は蔵書保管スペースの節約や、読み易さ、携帯性の向上のためだけでなく、自主的な精神を持つという意味において、日用的に必要不可欠と言えるものである。またそのようにして、誰かが時代に合ったやり方(デジタル化)で、すぐに絶版になる運命の、その時代の時流には合わない貴重な稀少本を、保存してゆく試みがなされなくなれば、日本の国力を再生へと導く底力は、永遠に潰えたままであると危惧される。つまりは金儲けの論理と御仕着せの権威だけでは、本物の文化にも国の活力にもならないということである。そこにはその場しのぎの消費があるだけだ。文字の印刷されたティッシュペーパーみたいなもので、鼻をかむように読んで、ぽいと捨て去られるだけのことだ。手間をかけてデジタル化してまで後世に伝えるべき思想も生まれてこない。そうすると必然的に日本全体がティッシュペーパーの如き精神に覆われてしまうこととならざるを得ない。古代、プトレマイオス朝アレクサンドリア図書館では、アレクサンドリアに入港した船の積荷に含まれる書物を一旦、没収して精査し、所蔵する価値があると決定された書物は写本を作って、写本を所有者に返すと同時に補償金が支払われたという。そのような途轍もない書物収集の苦労をしながら、パピルスの巻物を70万巻も所蔵していたということだ。今の日本では、デジタル化の技術によって個人レベルでも「小さな図書館」を作り、携帯することが可能であるのだから、現代人はアレクサンドリア図書館の知の精神は継承すべきであろうが、写本を作るように1枚1枚の紙を自分でスキャンせよというのは、あまりにも酷すぎる。時代の要請としても、「自炊代行」はあってしかるべきだ。そもそも、どれだけ売れて儲けているのか知らないが、社会全体の進歩とか文化レベルの向上という考えが微塵もなく、自分個人や出版社だけの偏狭な利益の観点から、このような訴訟を起こす作家どもは、私は人類の敵だとすら考えるものである。漫画はともかくも、物書きでありながら、そういう人類共通の利益を考えられないような人間は、単に低俗なだけである。またそういう低俗な精神から、林真理子氏のように自分の自慢話をしているだけの下らないエッセイ本が生み出され、高価なティッシュのように消費されていくのであろう。