龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

マスコミの役割と問題点

新聞業界が、いよいよ本気で新聞料金に軽減税率を適用させる運動を活発化させている。10月10日の朝日新聞、朝刊においても、9月26日に行われた日本新聞協会主催のシンボジウム「新聞、メディアの公共性と知識課税」での意見が詳しく伝えられている。例の如く、「公共性と課税」の問題であるとか、「民主社会の基盤に」新聞は必要不可欠だと言った内容が、各識者によって縷々、述べられているものである。しかしどうなのだろうか。少しでも多くの人に、「公共性」とか「民主社会」という言葉の意義をよく考えていただきたいと思うのだが、公共性や民主社会の本質的な在り方とは、新聞などのメディアによって国民全般に押し付けられたり、啓蒙されたりするものなのであろうか。もちろん私とて、新聞が公共性や民主社会の一部分であることは認める。しかし全てでは有り得ないし、代表するとも言えないはずである。もっと言えば、その一部分としての役割、品質さえも大きく低下、劣化させてきているように感じられるものである。たとえば現に、この朝日新聞の記事に関しても、あるいは日本新聞協会主催のシンボジウムについても、公共性と言う名の錦の御旗の下で繰り広げられているが、その中身は、新聞業界の利益のために、業界の息の掛かった人物たちに都合よく代弁させているだけのものであり、本質的には「広告」である。広告を公共性だと言っている時点で、公共性から大きくかけ離れているものである。本来的に公共性を云々するのであれば、あくまでも新聞業界の立場とすればこのような考え方になりますが、一般国民の方はどのような感想を持たれますでしょうか、と問いかけるべきである。その基本ラインから逸脱している姿勢において、国民を見下して馬鹿にしているだけの欺瞞でしかないものであり、公共性を主張する資格はないと言える。同様に「民主社会」についても同様で、新聞は民主主義を標榜しながら、民主主義を歪めている側面が今日では大きくなってきているものである。さらに細かなことを言えば、著作権との関連においてであるが、新聞協会は会社などの資料として新聞記事をコピーする場合には、僅か数十部の数でも新聞社に許可を取るようにと訴えているのである。自由に幅広く閲覧され、活用されることを新聞業界そのものが否定しているのである。そのようなものに対して、公共性を認める必要性が本当にあるのだろうか。是非、この機会に一人でも多くの人に現代社会における新聞というものの、もっと幅広く言えばマスコミ全体の役割と問題点についてよく考えていただきたいと切に願うものである。