龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

天皇と国民について

山本太郎というのも痛い男だな。天皇陛下原発問題についての手紙を手渡して、どうにかなるとでも考えたのだろうか。天皇が政治行為に関与できないという基本的なことを国会議員の一人として理解しているのであろうか。まあ、単なるパフォーマンス目的であれば、マスコミが大きく取り上げた時点で成功しているとも言えなくもないが、明らかに自爆行為である。現在の憲法においては、天皇は日本の象徴ではあるが、主権者ではない。言うまでもなく主権は国民にあって、天皇は我々と同じ人間ではあるが、国民ではない。なぜなら国民とは何かと言えば、国の民(タミ)であって、民(タミ)とは統治されている人間のことを指すものであるからだ。よって国民主権とは、統治されている側の人間が、その統治の様式や在り方を最終的に決定する政治システムである。天皇は統治はしていないが、統治される立場では有り得ないので国民ではなく、日本の象徴として君臨はしているが、どこまでも非政治的な存在として定められているものである。よって一政治家が天皇に手紙で政治的な陳情などをしても何の意味もないことだ。そんな事をするぐらいなら、安倍総理に親書を手渡している方が百倍も千倍も可能性があると言えるであろう。しかし山本氏の痛さはともかくとして、今回の問題で思い出したことがある。それは民主党政権が発足して間もなくの国会開会式における天皇陛下のお言葉に対して、岡田克也議員が宮内庁に対して、もう少し陛下の思いが入ったものにしていただきたいと要望したことである。その時も天皇の政治利用につながるとして批判の声が大きく上がり、却下されたものであるが、私もどちらかと言えば当時の岡田氏の考えに近いものである。天皇に主権はなくとも制度的に人間であると認めるならば、そこに人間らしさの感じられる主体的な声を求める気持ちは、国民感情としてもあると私は思う。今の日本の政治は、先の戦争における反省というか反動で、非政治的存在としての天皇の在り方をあまりにも厳格に適用し過ぎているのではないのかと考えられる。そもそも人間とは、生まれながらにして政治的な生き物である。人間存在と政治とは、切っても切り離せないものである。それを天皇においては、完全無欠に非政治的な存在であることを求め続けることは、どこまでも非人間的な人間という一つの奇形というか、矛盾した偶像を作り出すことでしか有り得ないと私は思う。日本の象徴とはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、しかしそれでは日本の皇室は国民感覚に近しいものには絶対になり得ないし、皇太子妃の雅子さんではないがおかしくなっても当然だと言える。たとえば日本の平和と国民の幸福を願います、と天皇が述べたとすれば、それではどうすればその日本の平和と国民の幸福が達成できるかと考えることが、人間存在として絶対的に不可避の政治性であると言える。ところが日本の政治は天皇の言葉に対して、政治的な信条の反映を一切認めないことから、天皇とは単に願ったり、希求したり、憂いたり、悲しんだりする存在でしか有り得ないのである。それならば宮内庁の役人が作った原稿のお言葉を読み上げるのではなく、また国民の前に姿を見せる必要性もなく、あくまでも祭祀的な存在としてどこかでご祈祷にでも専念していればよいということになる。今の在り方ではあまりにも形式的に過ぎて、天皇や皇室と国民の精神的な結びつきが希薄であると言えるのではないのか。卑しくも国会議員でありながら、そういう問題提起も何もなく、いきなり園遊会という場をとらえて、天皇に手紙を渡そうとする山本太郎氏は馬鹿だとしか言い様がないが、それでもこの機会に天皇や皇室のあり方と国民との関係性を再考するのもよいのではないのか。私は全ての国民が天皇も含めて皇室の人々と自由闊達に、日本の政治のあり方について議論したり話し合える日が来ることを密かに待ち望んでいるものである。天皇が日本の象徴として君臨することと、あくまでも一人の人間として政治的な心情を述べつつ国民との交流がなされることは、決して両立し得ないことではないと私は考えるものである。