龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

秘密と言論

一口に秘密と言ってもいろいろあるが、たとえば企業秘密であるとか、個人のプライバシーなども秘密の一つだが、国の公共性に関わる秘密は全て原則的に開示せよという論理は、民主主義的には妥当な意見なのかも知れないが、軍事的な安全保障や国家的なリスク管理の観点から見れば無理があると思う。特定秘密保護法案に対するメディアの反応は、朝日新聞などはウィキリークスの活動については、確か「パンドラの箱を開けるようなことにしかならない」などと尤もらしい批判をしていたのに、自分たちが規制される立場になると手のひらを返したように、反転した主張を展開するところなどはいかにも朝日新聞らしい。朝日だけでなく、毎日などの、いわゆる左翼勢力の言論は、絶えず一般市民を巻き込むような形で、市民の声を盾にして、あくまでも市民運動的に国家権力に相対するというスタイルであるが、その手法に惑わされてはならない。嫌な言い方かも知れないが、そのスタイルとは民主主義の様相を纏ってはいるが、本質的には彼らの「ビジネススタイル」であり、「ビジネスモデル」なのである。そこの所が見えているかどうかで報道を読み解く上での考えも変わってくると思う。たとえば、特定秘密保護法案についても左翼言論は、戦前の治安維持法のように一般人が逮捕される可能性があるなどとして市民の不安を煽る。先ずその可能性の有無について検証したいが、治安維持法社会主義共産主義を排除する目的の、法自体がイデオロギーを有しているものであって、それゆえに一般人が逮捕や取り調べを受けることになったのは必然であるが、特定秘密保護法は、どう考えてもそういう性質のものではない。一般人を逮捕、取り調べをしてまで社会を一定方向に維持せしめることと、国家の重要機密が流出しないように厳重に規制することは、距離感があるという以上に単純に比較し得ないものであって、それを一緒くたに混同して論ずるところに左翼言論のお粗末さと狡猾が見てとれるものである。常識的に考えればわかることだが、安全保障に関する事項の一部が、特定秘密に指定されて、その情報を取り扱い得る者についても適正評価によって職員が限定されるのであるから、我々一般人は何が特定秘密で、誰が特定秘密取り扱い者であるか、全くわかりようがないのである。法律の文面では、取得行為も処罰の対象になっているが、それは、過激な市民運動団体や一部のマスコミなどが対象となり得るものであって、一般人が偶然にどこかで誰かの話しを聞いて、それをツイッターなどでうっかり呟いて逮捕されるなどということは、まず考えられない。そういうことを想定した法律ではないのである。しかし確かに今後、世相が大きく変化して戦時中のように徹底した思想弾圧が為される時代が再来する可能性も0ではないから、適正に法が運用されるように第三者機関が必要ではあるが、朝日新聞のように市民感覚の不安を増大させて、端から悪法と決め付ける理屈はまったく間違った論法である。国に都合の悪い情報は隠蔽されることになるという指摘はその通りであるが、前回にも述べた通りそれは秘密保護法があろうとなかろうと同じである。国家権力とはいつの時代にあっても、都合の悪いことは隠したりごまかしたりするものである。それが果たして真に国益のための「秘密」であるのか、自己保身のための「隠蔽」であるのかは最終的には見極められ、審判が下されなければならないが、政治には選挙がある。我々一般国民にもその程度のことは自然とわかってくるものであるし、また自然とわかるぐらいの洞察力がなければ、そもそも政治を論ずる資格がないとも言える。いずれにせよ客観的に見て、現状の日本は情報管理の観点から言えば、あまりにもいい加減である。安倍総理の言う通り、これではアメリカなどの重要同盟国から情報が入ってこないし、情報共有の国家戦略も打ち立てられない。政治が核となって国家的な重要機密をきちんと管理することが出来ないで、周辺のマスコミに締まりなく流出している今日的な状況では、政治とマスコミの本来的な境界が不明瞭になって、たとえばマスコミがこの情報はちょっとヤバ過ぎるから国民の目から隠そうとか、この情報は盛んに煽り立てて政治に介入しようという風に、マスコミが選別する情報によって国全体がコントロールされたり右往左往する事態となっており、とてもではないが健全な国家運営がなされているとは言えない。またそういう背景から、マスコミの商業主義と政治のハイブリッドのように情報そのものの絶対的な価値が低下し、国民的な疑心暗鬼が生ずることとなって、正に妖怪のような陰謀論も実しやかにまかり通ることとなっているのである。陰謀論が全てインチキだとは言わないが(真実も多分に含まれてはいるであろうが)、何でもかんでも陰謀のように見えて来る世相の正体は、実は政治とマスコミの混成によってこの世に産み落とされた妖怪なのである。平安時代に様々の妖怪が市中を百鬼夜行したように、平成には平成の妖怪が確かに存在するということだ。いつまでも妖怪に惑わされていては世の中はよくならない。そう言う意味でも、特定秘密保護法は必要である。逆説的ではあるが、秘密が管理されているからこそ、真理も顕になってくるということなのだ。