龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

特定秘密保護法についての考察2

次に、公務員や適合事業者の従業員などの特定秘密保有者が、秘密を漏らさないように公安警察などの監視下に置かれるか、ということについて検証したい。もしそうなるのであれば、正に反対論者が指摘していたように戦前の治安維持法ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に描かれた恐ろしい、監視社会の到来ということになる。しかしこの懸念についても、常識的に考えれば反対のための不安醸成であって、そこまでしなければならない理由があるとは思えないし、また秘密保有者全員の日常を監視し続けるなど土台、無理な話である。しかし、特定の保有者にその疑惑があるのであれば、そういうことにならざるを得ないであろう。秘密保護の法律が出来て、秘密にこれまで以上の価値が生じることになると、外国勢力のスパイがある情報を入手しようとして秘密保有者に接近し、多額の金での取引や脅迫などにより漏洩がなされる可能性が生まれる。そうなると『007』のような世界が日本にも出現することとなるが、そもそもこれまでの日本は国家機密の管理があまりにも緩すぎたものである。情報の階層的な管理体制がなかったので、日本で諜報活動を行うスパイは特に危険なことをしなくとも、新聞やテレビのニュース報道、書籍やインターネットだけで、つまり一般人が誰でも利用できる手段だけで日本の政治動向や経済、軍事などの重要情報のほとんどが簡単に入手できてきたものである。機密情報の保全、管理という観点から見れば、日本はまるで露出症の如き丸裸状態であった訳であり、またそのようなあまりの無防備さが外交において相手国に徹底的に見下され、舐められる要因になっていたことは明らかであろう。北朝鮮拉致問題について見ても、日本の政治がこの問題に対して経済制裁か、或いは宥和策による解決のどちらに傾いているのかということが、まったくの筒抜け状態である。北朝鮮は日本の手の内が全てわかっているのである。果たしてこのような状態で、いざ日朝間の外交交渉に臨んだとして、拉致被害者が返還される交渉力が発揮できるかどうかは子供が考えてもわかることである。これは対北朝鮮だけでなく、相手国が中国や韓国であっても同じである。情報露出国家とは、端から外交交渉力を放棄している国家体制であり、日本国内の左翼言論のイデオロギーにおいては戦争放棄と外交能力放棄が、同じ文脈の中で位置づけられていると考えられるところの危険性がある。外交とは武力を伴わない戦争であるとも言えるからだ。そういう意味では、これからの日本はこの特定秘密保護法国家安全保障会議(NSC)の2本柱で、これまでの過激な平和思想によって失われてきた外交交渉力を復活させる必要性に迫られているとも言える。次回に続く。