龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

父と息子の形而上学

同年代の子供を持つ親としての心理なのか、子供たちが登山中に遭難して行方不明になっているという報道が一番、応える。もちろん見もしない他人事なので、夜も眠れないほど心配ということもないが、何となくそれに近いような重苦しい気持ちに包まれる。京都府滋賀県の境にある皆子山登山で小学生や中学生などの13人が下山しないで、捜索隊が出動しているという記事を見て、ヤフー地図で皆子山の地形を眺めながら何とか発見されればと祈るような気持ちであったが、全員無事に下山したとのことであり、ほっとしたものであった。9人の子供を含めて13人もの人間が、遭難で死亡などということになれば、本当に大変なことであった。
日曜日に、ブックオフで105円の文庫本を3冊選んで買った。その内の一冊を何気なく読み始めると、あまりに面白かったのでその日、寝るまでに読み終えてしまった。トマス・H・クックの『緋色の迷宮』(文春文庫)である。米国東部の小さな町で写真店を営む主人公の15歳になる息子が、ある日近所に住む8歳の少女の子守をしていたのだが、翌朝、その少女が行方不明になってしまう。主人公である父親は、息子のことを信用しているが、思春期で大人しい性格の息子と心を通い合わせることが出来ないでいる。息子は事件との関わりを否定するも、その説明内容には不自然なところがあり疑惑は深まってゆく。主人公は、もしかすれば自分の息子が少女にいたずらをして殺してしまったのではないかと思い始める。警察も最初の内は息子を慎重に取り調べるも、ついには重要容疑者として家宅捜査まで行われることとなる。また主人公の独身である兄も小児性愛的な嗜好を持っていることが発覚し、事件との関わりが疑われることとなる。そうした中で主人公は徐々に妻や息子との信頼関係を保つことができなくなり、心を病んでいく。それまで大切に育んできた家庭が壊れてゆく。そして小説は衝撃のラストに向かって進んでいくこととなる。この小説は終始、父である主人公の視点で語られているのであるが、その何とも言えない不安感や、やるせなさがよく醸し出されていて引き込まれてしまった。日本で現実に起きた宮崎勤の事件を思い出す。宮崎勤の父親も自殺してしまったが、家族の中でこのような幼児誘拐、殺害の犯罪が引き起こされたり、容疑者にされてしまうことは、本当に地獄だと思う。直感で何気なく選んだのだが、『緋色の迷宮』は当たりであった。
この小説を夢中で読んでいると、不吉な共時性のように元妻から携帯に着信が入っているのに気付いた。元妻から電話が掛かってくることは滅多にないが、たまに掛かってくるとロクなことはない。それで気になって連絡してみると、息子のことである。中学1年生の息子は進学塾に通わせている。その塾では学校での定期テストや通知表の成績をも子供に報告させているのであるが、その報告が嘘であったことが、元妻が塾の保護者懇談会に行って話しをしている内にわかったとのことである。息子は塾に、実際の点数や評価よりも良く報告していたのだ。それで塾側は個別に息子を呼び出して厳しく注意し、その時に息子は涙ぐんでいたとのことなので、塾長の先生ももうこれ以上、我々両親に息子を叱らないでやって欲しいということであった。それで、元妻は私にこのことについては息子に言わないで欲しいと言う。言うなと言うなら、私は何も息子に言うつもりはないが、嘘の報告をするということは親としては、軽視も看過も出来ないことではある。しかし息子は私には、電話のやり取りだけなのでいくらでも嘘を付こうと思えば付ける状況で、学校や塾のテスト結果について全て正確に、正直に報告しているのに、どうして塾に嘘をついたりするのであろうか。まあ私は成績が悪くて多少はがっかりして見せても、元妻のようにヒステリックに、がみがみ小言を言うこともないから、私に対して嘘を言う必要もないものであるが、塾に対してそういいい加減な態度を取ることはちょっと理解できない。まあ敢えて言えば、13歳にもなると、外部の人に対して自分のことを少しでも高く評価してもらいたいという気持ちが強くなってきていることの社会性の現れなのかも知れないが。この前の日曜日は、そのように私の心と世界が、親と子という関係性のテーマを通じて、不思議に結びついていた一日であった。