龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本人と嘘についての一考察

今、日本で最も痛々しい人物は、東京都の猪瀬知事ではなかろうか。痛々しいから同情できるかと言えば、それは別問題である。会見でどのような説明をしようとも、嘘をついていることは明白である。人間、基本的には、嘘をついてはいけない。それは前回に述べた、私の息子が塾に学校の成績を偽って報告するような子供の嘘も、政治家が賄賂疑惑について議会や有権者にする説明の嘘も同じである。全ての嘘は、結局は嘘にしか過ぎない。ところが子供よりも大人の方が、平気で嘘をつくことが多い。その大人の中でも、政治家は特に多く嘘をつく人種である。どうして日本の政治家は、これほどまでに嘘をつく傾向が大きいのであろうか。猪瀬氏については、政治家になる前の文筆活動をしている時は、嘘をつくような人物ではなかった。それは多くの人が認めるところであろう。だから東京都民だけでなく、日本国民全体が裏切られたような気分を味わわされていることだと思う。猪瀬氏は文筆活動を離れて、副知事から知事へと政治の世界を駆け上がっている間に、どこかの時点で嘘をつく人間に変質してしまっているのだ。それは東京都の知事が他の道府県知事に比べて、圧倒的な量の利権に囲まれていることも大きな要因であろうが、そもそも政治家というものは、民を統治する側にある者として普遍的な善悪の基準をしっかりと保ち続けることが難しいというか、感覚が麻痺してしまうのではないかと想像されるものである。言ってみれば政治の世界は、嘘で成り立っているような壮大な虚構である。政治家とは常に嘘と寄り添いながら、その時代にとっての、いかにも尤もらしい真実を作り上げていくことを生業とする者であると言える。何かが絶対的に正しくて、絶対的に間違っているというようなケースは少数である。ほとんどの問題は善と悪の、真実と嘘の間のグレーゾーンの階調の中で不安定に揺蕩いつつ、適正に処理される時を待っている。そしてその問題の微妙な明暗を、政治的な文脈に合わせたレトリックという嘘を通じて調節してゆくことが政治の本質であると言える。専制政治でもない限り、権力は、はっきりとした白か黒かではなく、グレーゾーンを住処として発生するものであり、その地帯においては嘘も時には方便である。よって自らの権力を通じて、嘘をついて私欲を謀るような行為も、政治の統治という視点から心理的に平板化してしまって、善悪の境界が曖昧になってくるのではないかと考えられるものである。本来は法治国家として、政治家も我々一般国民と法の下に平等のはずなのであるが、立法者こそが嘘つきになりやすく、またその罪悪感も薄いというパラドックスが成り立つ理由はそういうところにあるのだと思われる。皮肉な言い方をすれば、猪瀬知事が当初の答弁で、今にも死んでしまうのではないかと心配されるほどの動揺ぶりを顕にしていたのは、作家上がりで政治家としての修練が足りていないからであろう。これが長年の修行により立派な政治家になってくると、小沢一郎氏のように一貫して堂々とした態度が取れるようになってくるのである。嘘についてもう一点述べれば、日本人は概して欧米人に比べて、嘘をつくことの抵抗感が小さいと思われる。それは宗教的な要因が大きいのであろうが、日本人は神との関係性の中で生きていないということだと思われる。日本人はすぐに非を認めて謝罪もするが、簡単に嘘もつく。欧米人は中々非を認めずに謝罪もしないが、一般的には嘘をつくことの良心の呵責が大きい。そういう傾向があるのではなかろうか。謝罪はともかくも簡単に嘘をつくことの日本的な心理とは、あくまでも即物的、打算的に、単純に得をしたり、評判が良くなったり、不利な状況から脱却できたり、自己満足が得られたりなどの理由からである。そういう意味では、謝罪も同様に目の前の状況をコントロールしようとすることから為されることが多いと思われる。よって謝罪しても一向に事態が好転しないと判断される場合や、その問題が終息しない時には謝罪されないことが多い。つまり日本人にとっては嘘も謝罪も、相手や状況をコントロールして自らを有利に仕向けたり、被害を最小化させるための手段なのである。よって単なる手段であればこそ、嘘に抵抗感が小さいのも当然であるし、謝罪に本物の誠意が欠けていることが多いということになるのであろう。極論で言えば、長年、殺人の事実を否認し続けてきた囚人が、死刑が確定する直前に自白して述べる反省、謝罪の言葉のようなものである。私も日本人の一人として、あまり日本人の悪口は言いたくはないが、確かに日本人にはそういう精神性はあるのだと思う。しかし神との関係性に一旦、入ってしまうと嘘をつくということが非常に難しくなる。神とは決してコントロールし得る対象では有り得ないからだ。反対に言えば、欧米人のつく嘘とは、大胆不敵に神をも敵に回す覚悟のものだから、そこには日本人が窺い知れないような恐ろしく罪深い絶対悪の領域が存在すると考えられる。日本では簡単に善人が嘘をつくが、そこには絶対悪は存在しない。神のいない場所では、本当の罪深さもまた存在しないものである。神ではなく、その地の人間たちに忘れ去られて、いずれは全て許されることとなるのである。TVで痛々しい猪瀬氏の姿を見ていてそういうことを私は感じた。