龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

安倍総理の靖国参拝について

死者を悼み、弔うという行為は、生きている者にとって大切なことだとは思うが、それが政治的な意味を持ち、外交上の駆け引きの材料とされるのであれば、我々国民にとってみれば、どこまで純粋にその意義を認めるべきか疑問を感じざるを得ない。首相の靖国神社参拝についてであるが、日本のほとんどの国民は私と同様に、韓国や中国の反発によって内政干渉されることに、もうほとほと辟易していることであろうと思う。筋違いの内政干渉など本来は、無視して相手にしなければ、その内に沈静化し、定着してくるはずのものであるが、残念ながら日本は特殊な国でそうはならない。その理由として先ず第一に首相や閣僚などが、その時々によって参拝したり、遠慮したりの逡巡を繰り返すので、結果的に靖国への参拝の有無が、諸外国に対して国内政治の動向の重要な指標として見做されてしまっており、参拝することはすなわち、激しい外交攻撃の口実を相手国にアドバンテージとして与えることにしかなっていない現実がある。どんなに激しい反発や批判があろうとも首相の恒例行事として、8月15日の終戦記念日か、それ以外の日でも毎年決まった日に年に一度、参拝することを継続していればこのような事態にはなり得ていないはずであるのだが、そこに躊躇や迷いがあるからこそ、つけ込まれることとなるのである。これは国家間の外交関係だけでなく、一個人がチンピラのような人間を相手に何かの交渉をせざるを得ない時も同様である。いや相手がチンピラでなくとも夫婦間の話し合いでも同じであり、毅然とした一貫した態度がどうしても取れないのであれば、一旦、その主張や姿勢を取り下げて、初めから仕切り直して、その時々で態度を変えなくてもよいような方向に修正した方が、少なくとも表面上の威厳は保てるものである。つまり靖国神社に首相が参拝するのが正しいか、間違っているかという議論以前に、歴代の首相が参拝したり、参拝しなかったりする日本の国家的な逡巡が、何よりもの「不全」であると言い得る性質の問題だ。もう一点の理由は、日本の特殊性として、韓国や中国の反発だけでなく、国内のマスコミ、特に朝日や毎日など左翼言論のこの靖国問題についての報道姿勢が、韓国や中国への迎合というよりも、対日批判をさらに激しく煽り立てる内容のものであり、放置すればボヤで済むところが、火に油を注いで大火事になってしまうという状況があり、これがまた日本の政治が一貫した態度が取り切れずに逡巡し、躊躇する主要な原因となっているものである。政治家も本当に信念を持って行動しているのであれば、そのようなマスコミの報道姿勢に対して苦言を呈するなり、批判しても良さそうなものであるが、そういうこともこれまでまったく為されてこなかった。本当の民主主義とは、時には政治とマスコミが対立して、激しく議論することも不可避であり、それがまったくないということは、やはり日本の民主政治には、どこかに根本的な欠陥があるのだと思わざるを得ない。いずれにしても、日本の政治は靖国参拝への問題に対して、韓国や中国の内政干渉や左翼マスコミの批判を黙らせるだけの力を持ち得ないのであれば、その力量にあわせて、もっと功利的に対処せざるを得ないではないか。それが政治の現実主義というものではないのか。靖国がダメだということであれば、戦没者を悼む国立の追悼記念墓地を新たに建造して、公的には政治家は全てそこで参拝することとし、靖国神社はあくまでも私的な立場で参るというように区分せざるを得ないであろう。そうして韓国や中国の日本への攻撃の口実を何よりも殺いでゆくと共に、そのような信義の欠落した国との外交関係の回復に期待したり寄り添うのではなく、毅然として日本から外交を凍結する姿勢を見せていくべきだと私は思う。靖国参拝と歴史教科書は、同一に語られることが多いが、内容的には別の問題である。歴史教科書は、他国の圧力によって真実を曲げられ、教育を損なうこととなるので断固としてゆるがせには出来ない国家存続の根幹であるが、時の首相が靖国神社に参拝しないからと言っても曲がるべき真実は何もない。戦没者の霊魂が首相に参ってもらうことを本当に望んでいるのかということも、よくよく考えれば疑わしいものである。残念ながら日本の首相は、日本を代表して戦没者の霊を安らかに慰めるに足るだけの功徳を持っているようにも思えないものである。靖国神社は政治家でなく一般の国民が一人でも多く参ればそれでよいではないか。別に政治家などは、特に現代においては、特別に才能のある者でも、有徳者でもないのである。たまたま政治家であるということだけである。そういう人々が参拝して内政干渉されることにしかならず、また内政干渉を跳ね返すこともできないのであれば、私は参拝する必要性があるとは言えないと思う。それよりもどうすれば内政干渉されないような状況を日本に構築するのか、それだけを集中して考え、実行して行くべきだ。それこそが政治の現実主義であり、また国家の正義なのである。