龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治の自由の足枷

安倍総理について評価できる点は、就任以来、積極的に海外に赴いて外交を展開させているところにある。日本の総理とは斯くあるべしというべきであり、そもそも一国の代表者は国の顔として、セールスマンのように絶えず外に出ているべきである。重大な災害時だけ国内に留まっていれば良いのだと思う。またその方が、国内の政局で訳のわからない、ぐちゃぐちゃとした論争にかかずらっているよりも政権が安定して長持ちするであろうし、何よりも国民全般の精神衛生も健全に保たれるというものである。政治とはそういうものであろう。友好的な関係を育み、促進できるような国々とはこちらからどんどんと出向いて行って首脳同士が会談すべきである。安易にODAなどの金をバラまくような姿勢はいただけないが、資源の輸入や新興の投資効果が見込める国であれば、ある程度の財政援助は止むを得ないものである。その一方で中国や韓国のように、日本に対して基本的に悪意しか有しておらず、日本を貶めることしか考えていないような国に対する対処の仕方を、日本の政治は冷静に分析し、与野党の垣根を超えて、統一した見解を持つべきではないのか。そこは国難へ転ずべき可能性の高い危機対応なのだから、マスコミも含めて、ぐちゃぐちゃとした不毛な議論を継続させる問題ではないと思う。単に首相の靖国神社への参拝を賛成するか、反対するかと言った皮相的な統一見解ではない。中国や韓国のような国を、日本の基本的な外交政策において、建前はともかく実質的にどのように位置づけていくかという問題だと考えられるものである。私は現実に目を背けることなく、あくまでも仮想敵国とみなして、それに相応しい質と距離感の外交に徹するべきであると考えるものである。そもそも韓国などは、日本を世界的に孤立せしめることだけを企み、ロビイング活動を積極的に働きかけていることが明らかであるのに、そのような国に対して関係改善のために擦り寄るような愚かなことをしても何の意味もないものである。日本に対する、新たな難癖の材料を提供することにしかならないものである。韓国が日本をアメリカなどから分断し、世界から孤立化させることに邁進するゆえにこそ、安倍総理が新興の国々に積極的な外交姿勢を示すことは、意義のあるものであるが、それではどうして日本が、そのように日本に対して悪意の方向性しか持ち得ない韓国を突き放すことが出来ないかと言えば、結局のところはアメリカがそのように命ずるからである。日米韓が連携して、中国や北朝鮮の脅威に対抗するというアメリカの戦略上の骨組みはそれほどまでに強固で頑ななものである。ところがポスト冷戦的なその思考様式は、時代の変化の中でその意義も薄らいできているものである。韓国は未だに軍事指揮権をアメリカに握ってもらって、アメリカが手放すことを拒んでいるようであるが、その一方で外交的には中国とアメリカを両天秤にかけてバランスを取っているようなところがある。最終的に韓国がアメリカと中国のどちらかを選択しなければならないような事態になったとすれば、恐らく韓国はアメリカではなく中国を選ぶであろう。歴史的に見ても、韓国は独立した国家であるというよりも中国の属国なのであって、潜在的にはほとんど一体であると看做すべきである。韓国と北朝鮮イデオロギーはともかく、血族的に一体である。アメリカは軍事的には中国を敵対視しているが、政治と経済では結び付きを深めてきているので、中国と密接に連携する韓国を批判し難い立場にある。このような状況を利用して韓国は日本を疎外化させ、孤立せしめる外交戦略を取り続けているのである。しかしアメリカもさすがに韓国の筋書きにまんまと乗るほどには甘くはない。いくらなんでも韓国がアメリカという大国を都合よくコントロールすることには無理があるであろう。しかし韓国は日本などに比べれば、そのように政治の自由度が高いとは言える。日本は韓国のように、アメリカと中国を両天秤にかけるような真似はとても出来ない。ほぼアメリカの言う通りである。だから韓国との関係改善を図れなどと言われれば、日本の自衛隊が韓国軍に弾薬を提供しなければならないようなことにもなるのである。日本はアメリカとの同盟関係をゆるがせにせよとまでは言わないが、日本にとっての喫緊の課題は政治の「自由性」を確立させることにある。自由性の枠内においての同盟関係であればこそ意義があるものである。自由度の低い同盟関係など束縛と拘束以外の何物でもないものである。またそのためにこそ、憲法改正、自主憲法の制定が必要であると言えるものである。現行憲法の冒頭、第一条には天皇は日本国の象徴であると定められているが、真の独立国家、政治的自由の象徴であるところの出発点は、自主憲法の制定にしか有り得ないものである。現行憲法の枠内における「集団的自衛権の解釈」の変更などは、まったく順序が逆の問題であり、安倍総理もわかっていることとは思うが、そのように日本が正しい手順を段階的に踏めないということそのものが、日本の政治的自由度の根本的な欠落を示しているものである。しかし日本の言論や知性は、未だ戦後の冷戦構造的な洗脳に包まれていて、その認識の共有の地点までたどり着けていないということが、現状のようである。