龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本的自由主義の偽善と欺瞞

我が国は一応は、自由主義国家である。社会主義ではないので、一つの理念や政策に拘束されたり、制約されるものではない。よって選挙によって政権や首長が変われば、革命ではないけれど前任者の政治が完全には否定されないまでも、その一部が継承されなければならない理由もない。社会変革とか社会進歩という言葉は、ニュアンス的には社会主義体制を感じさせる響きがある。戦後の日本にも資本主義、自由主義に対置されるが如く、政治の世界では共産党社会党が存在したが、共産党はともかくも社会(社民)党はまったくダメになってしまった。ほとんど壊滅状態である。一時期は、資本家に対立するべき労働組合日教組、女性団体などを支持母体としてそれなりの存在感を示していたこともあったが、一般大衆的にはそのイデオロギーの中身や意義がよく解り難いし、またはっきり言って胡散臭いものでしかなかったからだと思う。大衆は、詭弁やインチキを論破できなくとも、本能的にその胡散臭さというものを嗅ぎ分ける能力は持っているものである。だから日本は、不可避的、相対的に大資本とか、マスコミ、官僚などが安定して強い社会体制となっているものである。それらに立ち向かう庶民、大衆の論理を代弁する政治が極めて脆弱であり、また国民の性質もお上の命ずるところを無条件に受け入れる従順性が高いからである。日本人は地政学的にも、閉鎖された島国として当然の帰結であろうが、革命というものを望んでいない。農耕民族的な(現在では農耕社会ではないが)特徴として、外部環境の安定とか、秩序という要因が何よりも大切なのである。それはそれで仕方ないと思う。何千年にも亘って培われてきた民族性はそう簡単に変化するものではない。日本人はそういう和を尊ぶ民族気質に適合した統治や政治の下で生きてゆく運命にあるとも言える。しかし縄文時代から江戸時代ぐらいまでの日本はそれでよかったのかも知れないが、現代においては国際的な流動化、侵略性の中で農耕民族的な和の精神だけでは、生き残れなくなってきているのである。太平洋戦争期における「八紘一宇」の精神も、元々は、日本的な和の延長、拡大であったのだ。ところが日本は戦争に負けてしまって、その国粋主義の理想というものを完全に否定されてしまうこととなり、アメリカが推奨し、導入する自由主義、民主主義という形に適合するように国家形態を自己変容せざるを得なくなったのである。戦後の急速な経済発展の中で、日本の国民道徳は、戦前の農耕民族的な個を滅した和の理念に立ち返ることも出来ずに(なぜならそれは一つの社会主義全体主義に他ならないからであるが)、政治は日本独自の民主主義というものを生み出してゆく必要性に迫られたものである。そしてその結果、作り上げられた民主主義の姿が、敗戦国家に相応しい似非の茶番的な民主政治であったと言える。それは一口に言えば、民衆の意思によっては根本的に変化し得ない、どこまでも空疎で、外部からコントロールされた政治であると言える。決して一人立ちすることの許されない去勢化された政治である。民衆は選挙の時にだけ、あくまでも儀式的に関与しているだけである。具体的に述べれば、国民の民意が要求するところの政治の争点が、「何者か」によって恣意的に歪められてしまっている。国民の総意が政治の対立軸や争点を決定し得ることが、民主政治の第一歩であると言えるものである。ところが実際には、今回の東京都知事選を見ても明らかなように、都知事の職権とは関係ないところの原発の問題が突如として争点に固定化されてしまうような筋書きがどこからか発生する。原発やエネルギー政策の有り方は日本全体の問題であるから、東京都が無関係であるとは言えないが、これでは普天間飛行場の移設や辺野古埋め立てについての賛否を東京都知事選の争点にして問うことと同じであり、一口で言って、訳のわからない選挙である。朝日新聞などは例のごとく、自民党が争点をぼやかす戦略を取っているなどと、ひっくり返った事を言っているが、そのような詭弁は本来の民主政治を空疎化させる破壊行為以外の何物でもないものである。細川氏と連携する小泉氏は、今回の選挙結果が国政に大きな影響を与えるものとなる思うなどと述べているが、当人がどう考えようと勝手であるが、その根拠がまったく示されていない。具体的には何の根拠もない論説で世間の耳目を集めるパフォーマンスをなすことは山師のすることと何ら変わりないものである。選挙の私物化と看做されるべき行為である。もう一点は、先に述べた通り日本は社会主義国ではないから前任者や前政権の流れを踏襲、継承しなければならない理由は何もないが、だからと言って、民主主義の向上や進歩と、そして日本の国益のためには、自由主義国家においても紆余曲折はあろうとも、政治が時の経過の中で徐々にでも洗練され、ステップアップしてゆくことは当然のことであり、選挙のたびに双六の振り出しのように一旦、ご破産に戻さなければならないということにはならないはずなのである。ところがこの点においても日本の茶番政治は、政治を本質的に空疎化させるためにこそ、振り出しに戻そうとする目に見えない圧力がもの凄く強いように見受けられる。これまた今回の細川氏の出馬にそっくり当て嵌ることだが、前任者の猪瀬氏が徳州会から5千万円の金を受け取っていた問題で辞任に追い込まれた直後に、20年前の事とは言え、東京佐川急便から1億円もの金を受け取っていた事の追求で政権を投げ出した細川氏が有力候補者に祭り上げられる事態は、誰が考えても異常である。細川氏を救世主のように賞賛する一部マスコミの道徳感覚も尋常ではない。細川氏は熊本の自宅の門や塀を修理するために銀行ではなくて、なぜか東京佐川急便から1億円もの大金を借り入れたなどと笑うに笑えないような弁明をしていた人物であり、うまく逃げ果せた結果なのか刑事的な処分も受けておらず、政界引退後は芸術家として悠々自適の生活をしてきた人物である。そういう人間をこのような経過の中で、今一度、政界に呼び戻さなければならない理由や必然性があるのだろうか。これまた民主政治の本来の正義と意義を馬鹿にし、破壊するものでしかないではないか。何の教訓も学びもなく、単に振り出しに戻して過去の過ちをご破産にしているだけのことである。猪瀬氏も細川氏も全く同様に、借り入れなどではなく無償で大金をもらっていたのだ。政治とはそういう世界である。そして、そういう世界を維持させ続けようとする全体的な力学が日本の茶番政治と薄っぺらなマスコミ正義の本性なのである。我々、一般庶民が1億円もの金を借り入れしようものなら、その利息支払い分だけで首を吊らなければならないことにもなるであろう。特異な政治の世界だからそういうこともあって当然などと寛容にならなければならない理由は何一つない。有権者はこういう日本の偽善、欺瞞体質にもっと怒りを表明すべきであると私は思う。