龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

70年にして成らない日本の民主政治

そうは言っても、ローマは一日にして成らずとも言う通り、日本の民主主義が自民党に代替し得る本格的な政党なり、質の政治を生み出すことは、現状から見れば絶望的とも言えるほどに困難である。一日どころか戦後70年以上経過しても出来てこなかったことが、一回や二回の選挙で魔法か奇跡のように実現することなど絶対に在り得ないことである。自民党が選挙で敗北することは、今回の都知事選や2009年に民主党が勝利した総選挙を見ても珍しいことではないのだが、新政党や自民党以外の既存政党が、自民党に対立するもう一つの柱にまで育っていくことはない。古くは細川護煕氏の日本新党であるとか、もうよくは覚えていないがその流れであった新進党なども、一時的に脚光を浴びてもてはやされるのであるが、長続きすることはないものである。その寿命はせいぜい持って2~3年といったところである。全ては内部対立や分裂を繰り返しながら消滅していくものである。なぜそうなるのかと言えば、元々が「自民党の亜流」としての性質しか持ち得ていないのであって、厳しい言い方ではあるが、結党の発端からして民主主義の構成要素としての存在価値がないからである。本質的には存在価値や実体性がなくても一時的なブームで票を集めることが出来れば、僅か2年ほどの寿命であっても、日本の法律では政党助成金として膨大な金額の政治資金がその党に支給されることになるのであって、これは言ってみれば、政治の世界における「錬金術」なのである。その洞察なり見極めを我々有権者はきちんと、政治を見る最低限の良識なり常識として備えていなければならないと思う。アメリカの政治を見ても、民主党共和党の二大政党は決して、日本のアメーバ政治のように分裂したり合体したりすることはないでしょう。それだけ組織がしっかりしているということであるが、本来はそれが当たり前の姿なのだと思われる。繰り返すが日本はその当たり前のことが、戦後70年以上経過してもいまだに実現できていいないのである。ここで私が強調したいことは自民党の亜流政治は、存在価値がないだけでなく危険極まりないものであるということだ。なぜかと言えば、2~3年で政党助成金だけふんだくって夏場の幽霊のように消えていく存在なのだから、「責任」など持ち得るような政治にはならないのである。民主党政権の政治を見てもわかる通りであるが、ポピュリズムの政策と一時的な順風で政権を掌握することになってもすぐに行き詰ってしまって大きな混乱をもたらしたり、細川護煕氏なども確かそうだったように記憶しているが、あっさりと投げ出されてしまって、後から考えれば一体、あのブームは何だったのかということにしかならないものである。だからこういうことは全て、日本には自民党の政治と自民党の亜流政治しかないことの当然の帰結なのである。よって我々有権者は、選挙には一片たりとも期待してはいけないということであると同時に、亜流が一時的にであれ政治の本流に化けることの危険性を認識しなければならない。腐っても鯛と言えるかどうかはともかく、取り敢えずは日本の政治は、本家の自民党に任せる以外に道はないということである。我々有権者は選挙結果に期待するのではなく、日本に本格的な二大政党制の民主政治を育て上げていくための土壌づくりをしていかなければならないものである。そのためには日本の政治の腐敗、堕落を厳しく監視するのは当然のことであるが、それと同時に日本の統治、管理体制の在り方の問題にも積極的に切り込んでいく意識を持たなければならない。具体的には政治と大企業の癒着を根絶させるためには、企業献金の全面的な禁止が導入されなければならないものであり、その実現のためにはもっと国民の要求が必要であると考えられる。もう一つは権力と情報についての問題であるが、日本ではNHKを筆頭に新聞社やTV局などの政治的影響力があまりにも大き過ぎることが弊害になっているものであり、民主主義を歪めている諸悪の根源であるとも見れるものである。これを改革するにはどうすればよいかということであるが、一部のマスコミ機関に一次的な政治情報を集中させてることで政治権力との癒着構造の温床になっている記者クラブ制度を廃止させることが、絶対的に必要であると考えられる。情報は管理されるものではなく全ての国民に均質に流布され共有されるべき資源である。この資源が一部のマスコミに独占され、管理されていることが、結果的に政治の腐敗にも結びついていると考察されるものである。ともかくも日本はもはや政治に一任していてはいけないのだ。危機管理のために国政においては自民党を下野させることはできないが、我々国民が政治に代わって内実的に日本の政治の質を変革させていくべく努力しなければならないのだ。