龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

認識力が唯一の武器である

しかし細かなことだが、前から気になっていたので言わせていただくが、「消費増税」と言うなよ。何で日本語を正しく使わないのか。新聞社までもが。「消費税増税」と正しく発音し、表記すべきだ。フランス語じゃあるまいし、勝手に適当にリエゾンするなよ。そこまで欧米化してどうする。「消費増税」などというと「消費を増やすための新しい税金」という風に解釈する人が出てきてもおかしくはない。その解釈まで行かなくとも、イメージ的には軽やかというか、生理的に拒否感を抱かせないように配慮した言い回しである。本来の「消費税増税」には、「税」という言葉が2回重複して出てくるので政治的に忌み避けられたのであろう。しかしイメージがどうであろうと日本語を正しく用いることが日本人としての、そして日本国家の根本である。何が言いたいのかと言えば、こういうことの一つ一つが日本の政治や政治と深く結びついたマスコミの「愚民政策」であり「洗脳」だということなのだ。こういう細かなことに対しても違和感を感じて異議を訴えていかなければ全体の「不自然さ」も見えてこないということなのだ。
自民党政治の本質とは愚民政策なのである。いや自民党だけでなく実は与党も野党も無関係に日本の政治全体が、そしてマスコミまでもが国民を愚民化させることで一つのまとまりと統制を得ているのである。民主党政権などは二大政党制の構築に失敗しただけでなく、愚民政策を行う能力すら持っていなかったことから日本がぐちゃぐちゃになってしまったものである。そしてそういうぐちゃぐちゃの政治の時に限って東日本大震災のような大災害や中国国内による反日暴動のようなことが偶然ではなく、必然的に出来することとなるものである。現実から目をそらしてはいけない。日本は脅されているのである。しかし脅されている原因は政治の無能力だけにあるのではない。政治の無能ももちろん大きな要因であるが、実は国民全体の真実を見極める認識能力がどの程度のレベルにあるかということの方がより重要なのだ。だからこそ政治やマスコミは愚民化政策によって国民の認識力を究極的には家畜並みに貶めなければならないという理屈となる。そして家畜並みの認識力であれば、その精神やひいては生命の価値も、為政者的には、建前の人権思想は別にして家畜並みであると看做し、数千人や数万人の人間が災害などで一瞬にして死んでくれた方が、その後の復興需要や暗黙の命令に従わせる傀儡統治を考えたときに都合がよいということにもなりかねないものである。なりかねないという以上に現実的にそうなっている可能性が高い。これは陰謀論云々ではなくて、現実というものを社会の共同幻想に誑かされることなくどこまでシビアに見極めることが出来るかという問題である。政治も人権団体も我々日本人の命を守ってはくれない。我々国民は国や政治に頼るのではなく、今や自分の命は自分で守らなければならない状況にまで追い込まれているものである。この地点のレベルに立った時にマスコミが言うことは嘘ばかりである。しかしだからこそ我々国民はただ認識力を武器として戦うことができるものである。これは理想論ではなく絶対的な真理である。人間とは戦争等の異常な状況下にあっても、自分たちよりも低位の認識力しか持ち得ない未開の人種であると考えるからこそ支配したり殺戮したりできるものである。武力に優っていても自分よりも高等な人間は心理的にも思想的にも殺せないものである。なぜなら戦争も陰謀も一国のエゴからではなく、全地球的な視点の計画によって動かされている側面が大きくなってきているからだと考えられる。などというと益々陰謀論のようであるが、こういうことは誰々の何々の本に書いてあったということではなくて、私のようにほとんどそういう類の本を読んでいなくとも、単に純粋な思考を危機感を持って日々重ねてゆくと自然と行き着くところの認識なのであると思われる。そして私が声を大にして訴えたいことは、今の日本の政治やマスコミの洗脳に赤子のように誑かされ、愚民政策を際限なく受け入れている批判能力を喪失した状態が一番危険なのである。いつまた何時、何が起こるかわからないし、何でも起こり得るのである。最近の私は予知能力など皆無であるのに、大地震が発生するタイミングすら何となくわかるようになってきているものである。繰り返すが我々一般国民はただ認識力を武器にして戦わなければならないのだ。唯一の武器である大いなる認識力を捨てた時に待っているものはカタストロフィでしかない。その時には日本はヒトラーが予言したように壮大な実験場となることであろう。