龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

絶対的危機の損益分岐点

どうなんだろうか、結局「正しい判断」というものは、個々人の考え方や価値観の問題ではなくて、数学の「ABC予想」の証明ではないが、一つの解なり理論に辿りつける能力があるかどうか、ということではないであろうか。ということでここに一つの人類学的な難問が、特に日本において提示されている。新型コロナウイルスのオーバーシュート(爆発的拡大)を防ぐためには、どのような社会的な措置が講じられるべきであろうか。唯一の解は、検査数を増やして感染者を特定し、緊急事態宣言を発して感染が起こり得る物理的な空間や接触の機会を一定期間、最大限度に抑制することである。それ以外にこの問題の解はないのである。ところが日本の政治が、そして大衆の多くがその解に対して、疑問や躊躇があるということは、日本と言う社会がこれまで数十年間にも亘って、いわゆる「議論のための議論」だけに終始してきて、このような日本全体の存亡、全ての日本人の生命が危機に瀕する有事に際して、本能的、条件反射的に正しい判断を瞬時に採択する能力を完全に喪失してしまっていることの現れでしかない。感染症の対処ですらこの程度であるのだから、戦争や他国に攻め入られた状況において、日本の政治が何一つとして出来ないことは、はっきりと目に見えていることではないか。今こそ日本人はそういうことをよく考える時である。平時における議論のための議論など数万時間、数十万時間を費やしたところで、いざ有事の状況を迎えた時には何の役にも立たないどころか、無能や無力感を正当化する屁理屈にしかならないものである。日本が今、学習しなければならないことは、有事や緊急事態に際して、考え方や物の見方で事態を内向きにコントロールすることではなくて、危機に対処するのに必要な全体意識に速やかに正しく変換することではなかろうか。それは民主主義的な百花繚乱の主張などではなくて、ある種の訓練で一時的に統制されるべき性質のものである。危機が過ぎ去った後に、平時の意識モードに戻せば良いだけのことなのである。それが出来ないような国は、長期的に見れば滅んでいく以外に道はないものと思われる。コロナウイルスはそのの生物的な増殖によって、日本人が抱える精神的な未解明の難問を唯一の正解へと導き、証明しようとしてくれているのだから、ある意味では感謝すべきである。

「緊急事態宣言」については、強制性がないとか罰則を伴わないから発令しても、何も変わらないなどという見方は、それこそ正に、平時における議論のための議論の延長線上に位置するものでしかない。意識のモードが切り替わっていないからそういう考え方になるのであろうが、そういう問題ではない。それはそもそも問題を解く基本的な姿勢、方向性が間違っているのである。コロナの爆発的拡大を防ぐために、緊急事態宣言で何が出来るか、何が変わるかという発想ではなくて、一時の中国がやっていたように拡大を抑え込むためには、あれかこれかではなくて、今、出来ることはあれもこれも全てやらなければならないということである。よってたとえ強制性や罰則がなくても、緊急事態宣言の発令で新たに出来ることが一つでも、二つでも増えるのであれば、そうすべきなのである。それによって日本全体の空気感が僅かでも変わるのであれば、それを否定する理由などないはずである。また法令としての強制性や罰則の問題は、感染症の対処に関して言えば、必ずしも障害になるものではない。なぜなら営業活動や集会、外出などにおいて国が何らかの指示、命令を発したとして必ずしも全てが厳正に従わなければならないということではなくて、仮に全体の8割が従って、2割の人や店舗が無視をしたとしても、感染の性質上、8割が履行するのであればかなりの改善効果が見られるであろうからだ。従わない2割からクラスターが発生しないかどうかを注視、追跡すればよいのだから、そこに罰則がなくとも効率的に抑制の対処が為し得るということである。歩留りの論理が、感染症の抑止においてはそれなりに有効であるということだ。

とにかく今、我々は他人事ではなくて自分や自分の身内、家族の差し迫った問題として真剣に立ち向かわなければならない。今、安倍総理が緊急事態宣言の発令を躊躇して遅らせていれば、数か月後に、日本各地の体育館や講堂などで、数が多過ぎて焼却し切れない遺体が無数に並べられる光景に遭遇する可能性が何パーセントとは言えないが、決して小さくはないということである。誰もそのような悲惨な光景を見たくはないであろう。仮にそのような事態になった時は安倍総理と今の内閣の責任であることをはっきりと申し伝えておく。政治だけではなく、いまだ他人事のように考えている大衆に対しても伝えておきたいことは、子供のいる親であれば理解してもらえると思うが、仮に自分の子供が難病にかかったとして、臓器移植をするしか命が助かる可能性がない状況で、海外に行って数千万円や1億円もの金を払って手術をしたとしても成功する可能性が10%程度しかないとすれば、どのような判断、決定をするであろうか。多額の借金を背負ってまで僅か10%程度の可能性にかけるのであれば、手術をしても恐らくは何も変わらないであろうから、可哀そうだけれど短命の運命であったと諦めて、見捨てるに等しい判断を下すであろうか。もちろんそういう親もいるであろうし、別に私はそれを道徳的に批判するつもりはないが、やはり金や可能性の問題ではなくて、出来得ることは全て自分の子供のためにしてあげたいと考える親の方が多いのではないのか。単純、同列に比較できる問題ではないが、私は緊急事態宣言の発言も出来ることは全てやるという意思、姿勢の観点から見れば、何ら異なるところはないと思う。それを金の問題にして冷酷な判断に傾くように政治の判断を躊躇、逡巡させているのは、財務省などの官僚の感覚なのである。