龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

麻生氏の発言と大衆の判別能力

思い出すほどに、考えれば考えるほど腹が立つ。麻生めが。この人の「要望される方、手を挙げる方に配る」という発言と財務省の本音というものを、よく把握できていない人が世の中には多い、いやほとんどの人がわかっていないように思われるので、面倒だが、土曜日で時間もあるので、自分なりに説明することにしよう。

何から言おうか。先ず「申請」という言葉の意味を正確に把握出来ていない人が多い。申請とは、国民が国家や公共の機関に対して、ある一定の行為を求めて、お願いすることである。申請が認められれば、「許可」されるのである。それで当初の緊急経済対策における減収世帯への30万円の給付は、申請を行うことが受給されるための条件となる。申請をして、審査がなされて、許可されたり、不許可になるということである。許可するかどうかは役所が決めることであり、また許可されたとしてもいつの時点で支給されるのかということも含めて、国民はお上の決定に従うのみである。たとえば申請書への記入の仕方や必要な添付書類に不備があったからと、その具体的な理由を明示されずに却下されたとしても、国民は文句を言えない訳である。よってそうならないためには行政書士などのプロに依頼して、申請書類を作成してもらわなければならないことにもなる。もちろんそうは言っても、今のような未曽有の危機の状況において必要以上に審査を厳しくするということは、常識的な政治判断としても許されないことだから、役所の方も基本的には必要書類さえ揃っていれば認めるという方向で進めるであろうが、そのあたりのさじ加減も含めて、末端の役所なり、上級官庁の財務省が主導権や決定権を有しているということである。わかりやすく言えば、財務省のコントロールの範囲内で、30万円の支給世帯数を絞ったり、増やしたりすることが可能だということだ。

ところが国民一人に一律10万円を支給するということは、減収世帯への30万円支給案とは違って、申請を要しないことである。今後、役所から申請書という文言の入った10万円支給の用紙が郵送されてきて、そこに振り込み先の口座番号を記入して返送することになったとしても、それは便宜的に申請という言葉を使っているだけで、本来の申請行為ではない。なぜなら審査というプロセスがなく、無条件に許可されている状態が出発点になっているので、申請=国家や公共機関に申し立て、請い願うという言葉は字義的にも正しくないということになるからだ。それではどういう言葉が適切かと言えば、これは単に手続き上のことなのだから、「申し込み」であろう。申し込みに対しては、許可されるのではなくて、「受け付けられる」のである。それがこの場合における本来の用法であるはずだ。10万円が要らないという人は、給付の申し込みをしないことによって権利を放棄することになるだけのことだ。

要するに何が言いたいかと言えば、財務省は自分たちの権限によるコントロールが可能な申請型の支給スタイルに拘っていたということと、麻生氏の発言は、単に性格の悪さからということだけではなくて、意図的に一律支給の申し込み手続き程度のことを、国家権力に願い求める申請のニュアンスで、上から目線で発言し、国民の認識を混同、錯覚させることによって、財政支出総額を抑制しようという魂胆でなされているのであって、これはこの制度の趣旨から考えても非常に問題が大きいと言わざるを得ないものである。政治の悪巧みの誘導ということに対して、大衆はもっと政治家の使う言葉の微妙なニュアンスであるとか、意図というものに、警戒心をもって賢くなる必要性があると思う。ところが頭の程度が低いというか、賢いとは言い難い多数の大衆層は、政治家の言葉の表面だけを捉えて、たとえば麻生氏の発言にしても、現金を振り込んでもらうためには申請が必要なのだから当然のことで問題性はないなどと、簡単に政治の全体的な思惑に誘導され、飲み込まれてしまうのである。そしてそういうことの積み重ねによって政治に都合のよい世論形成が日々、行われているということである。

しかし何で私が、こんなことまでかみ砕いて説明しなければならないのか。面倒臭いなあ。申請書類の作成と同じほどに面倒臭い。