見も知らぬ誰か他人が
すぐ近くで不慮の事故に遭って非業の死を遂げる。
そういう報道記事を目にする。
ただそれだけのことなんだけれど
本当にそれだけのことなのだが
その人は私の不幸の身代わりになって
亡くなったのではないかと申し訳ない気持ちになる。
そして有ろうことか
私の魂は
枷を外されたように軽くなって
これまで重く閉ざされてきた現実の扉が
そっと開かれていることを知るのだ。
ああ、これが錯覚であれば、思い違いであれば
どれほどよかろうか。
でも、もしかすれば私もまたこれまで
死にこそはしなかったまでも
見も知らぬ他人が一人で抱えきれない苦しみや悲しみを
引き受け、背負いこみながら
生かされ続けてきたような気がしないでもない。
一旦そういう認識に至ると
目の前の現実が、現実を超えて
途轍もなく畏れ多い啓示の情報に見え
震撼のあまり言葉を失ってしまうのである。
そして魂という海の底から
沈んだ遺体を引き上げるように
この思いを詩の言葉に置き換えることは
罪深いことなのであろうか。
私にはわからない。