龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

コロナと日本の内向き諜報

何も言いたくはないけれど、何か言わなければならない。その矛盾の狭間で、私はいつも窮屈に生きている。罰せられることはない。生きていることが、ある意味では、一つの罰のようなものだ。では聞くが、国家とは国民が生きていく上で十全なる信用に値するものであろうか。まあ一口に答えられぬということは、容易に予想できる。最も無難で、最も的を射た答え方は、「時と場合による」ということであろう。時と場合によって、国家権力は性質が変化するのである。常に国民の生命や人権が最大限に尊重されるかと言えば、必ずしも、いや言うまでもなく、そうとは限らないということである。平時にルーチンワークとして役所の仕事や行政機能が円滑に運営されている状況では、たとえば住民票を発行してその記載内容に不備や瑕疵がないかとか、免許証の更新時期の連絡であるとか、納税に関する手続きの説明などは、当然のことだがそこに嘘はないし、また敢えて疑いをさしはさむ必要性も存在しない。裁判所の判決や執行なども基本的には同様である。真面目で有能な官吏によって日々、運営されている。しかしそれらは国家権力の表層的な一面であって本質ではない。それを本質だとはき違えてしまうと、いざという時の適切な判断が難しくなってしまうであろう。例を挙げれば、戦争とか大規模災害やパンデミックのような状況で、政府は国民に真実で信用し得る情報を本当に伝えるのかどうかをいうことである。何も国家機密を暴露しろと言っているのではない。国民の生命や生活に重大な影響を及ぼす可能性がある情報を隠蔽することなく、すべて公明正大に政治権力が開示するのかどうかということを、私は今問題にしているのである。残念ながら現下のワクチン政策と一連の報道も私は政治権力行使による情報統制の一類型であると見ている。もちろん私は自分の考えを誰かに押し付けるつもりは毛頭ないし、議論しても無駄だと思っている。それぞれが自らの信念に従って判断する以外にないであろう。ただこれだけは言っておきたいということが一つあって、ネットに書かれている情報や意見は匿名による無責任で有害なデモであると、今、盛んに政府やマスコミが断定的に批判の声を高めている。そういう方法で大衆の支持や信用を取り付けようとしているのであろうが、むしろその運動の方こそがプロパガンダであることは明らかであって、ネットだから匿名性が守られているなどということは、私に言わせれば、時代錯誤の思い込みに過ぎない。そうだと信じ込んでいる人は何もわかっていないのである。ネットの匿名性とは個人や民間に限って成り立っている。よって誰かを名誉規範などで訴えようと考えても、相手の住所や名前の特定にそれなりの時間や金がかかって、ハードルが高いということは言えるであろう。しかし相手が国家や政治権力であれば匿名も何もなくて、ほとんどが筒抜けというと語弊があるかも知れないが、丸裸のようなものである。特別な調査などしなくともそういうことは権力機構にはわかるものである。そもそも、そのための権力なのだから。よって政府批判は無責任どころか、その正反対の行為であるとも言える。

これから述べることは、その証拠というか、ちょっとした実例のようなものだが、人によっては、そんなことはあり得ないとかフィクションだと思う人もいるであろう。私はこういうことで嘘をつかないし、また人の注目や関心を得るために偽りの話を創作する精神性やモチベーションは、まったく持ち合わせていないが、そう思う人はそう思ってもらって結構である。またむしろその方が私の気持ちも楽である。信じられない人は私が白昼夢か妄想でも見たのだと考えていただければよい。ある意味では、人生とは夢のような一幕のフィクションなのだから、それはそれで間違ってはいないのである。前回の記事、6月10日の「遺伝子ワクチンの危険性について」を投稿して数日後のことであったが、・・・いや、話しを進める前にまず、私の名前をきちんと公表しておくことにしよう。私の名前は吉川玲(ヨシカワアキラ)で、大阪市在住の57歳である。来月で58歳になる。宜しく。それで、その数日後に私の職場に警察がやってきたのである。もちろん私は何か悪いことをした訳でもないので、逮捕しに来たのではない。事実は小説より奇なりとは言うが、幸いにしてカフカの小説のようにいきなり不条理に逮捕されるようなことはない。それでは何をしに来たのかといえば、そういうことは今回が初めてではなく、以前にも何度か経験したことがあるのでわかるのであるが、私がブログに、政治的に好ましくない記事を掲載すると地元の警察が、用もないのにわざわざ私に顔を見せにやってくるのである。前回、警察が来たのはもう2~3年前のことだったと思うが、それがどういう内容の記事に反応してのものだったのか、忘れてしまった。大して気にはしていないのですぐ忘れてしまうのである。皆さんはどう思われるであろうか。名前を公表していなくとも警察はブログの記事の作者が私であることを知っていて、もちろんそういうことは一切、口にしたり匂わせるような態度はないが、日本的な所作とでも言うのか、以心伝心にそういう内容の記事を書かないで欲しいと伝える目的で、警察の顔を見せに来ているのである。高圧的な態度で圧力を掛けるようなことはないし、時間にしてもほんの1分とかそこらのものなので別に私は正直な所、特に何とも思ってはいない。「顔を見せる」とは言っても、表向きの理由はどういう用件で来ているのかと疑問に思われるであろうが、その口実は、防犯情報であるとか、特殊詐欺の注意喚起や、自動車のナンバープレートや車内荷物の盗難防止などの数枚の吉本の契約タレントが写っているビラを持ってくるのだが、そういう内容のことを私は警察に一切相談しているわけでもないのに、わざわざ警察が私一人に会いに来ること自体が不自然であるし、あり得ないことである。その上、警察は帰り際には、A4サイズぐらいの警察内部の名簿用紙のようなものを私に見せて、吉川玲という名前の氏名確認をしていくのだが、私の職場の建物は戸籍上、現在老人介護施設に入所していて住んではいないが、私の父の名義になっているので、そこに息子である私の名前が記載されていることもおかしいのである。よってそれも圧力や言論弾圧にならない程度の要請なのであろうと考えられる。誤解のないように断っておくが、私は別に腹を立てているわけでもないし、不快感や不安を感じてもいない。嫌味で言う訳ではないが、私ごときのために警察が公務の時間を割いて顔を見せに来ることが、お疲れ様という気持ちである。私は自分で言うのも何だが、善良な一市民なので警察が嫌いではないし、敵だとも思ってもいない。純粋で日常的な警察の業務であれば、私で協力できることであれば協力したいとも考えるし、何かの用事や聞きたいことががあるのであれば、私の職場にも何度来ていただいても、お茶を出したりのおもてなしは忙しいので出来ないが、基本的には歓迎である。しかし政治の手先となって行使される警察の顔見せであれば、話しは別である。私は頭はそれほど良くはないが、明晰なので(頭の良さと明晰さの違いについて話せば長くなるので別の機会にするが)瞬時にして色々なことがわかるのである。色々というのは日本という国家を取り巻く状況である。日本は平和で治安のよい国であるので、警察が政治に命じられて来るといっても、不快感や不安を感じるようなものにはならない。大げさなことを言えば、荷物をまとめて明日にでも日本を亡命しなければ身の危険を感じるということには、なりようがない。これがたとえば中国であれば警察に連行されて拘束され取り調べを受けたり、即日の裁判で有罪判決になるのであろうし、北朝鮮であればその場で銃殺されるのかも知れない。そういうことを考え合わせれば、日本という平和な国に生まれて幸福であった、神様、有難うという気持ちを感じるべきなのであろうが、残念ながらそういう気持ちにもならない。なぜかと言えば、私にはわかるのである。見えるのだ。ソフトな対応で以心伝心に政治の意向を警官の訪問に託すこと自体は日本的で別に私は抗議する気持ちはないが、私のようなどうでもよいような人間の元に警官が政治の意向で派遣されることが、少しずつではあろうが、日本の内部的な中国化が進行していて、その浸透度が危険水域をはるかに超えていることの、恐らくは兆候なのだ。日本は徐々に中国の影響力によって政治が、そして社会全体が社会主義化していっているのである。ワクチン政策自体はファイザーもモデルナもアメリカ製であるし、世界全体の共通した志向性の元で進められているので見え難いが、そういう意味では世界全体が全体(単一)主義化していっているようにも見えるが、細かく見れば日本は明らかに中国の総監視体制的な社会主義に組み込まれて行っているようであり、それが私には何よりも恐ろしく、そして不安なのだ。警察自体は怖くもなければ、嫌いでもない。日本は本来、アメリカなどよりも中国の政治との親和性の方が高いのではないかと考えられる。よって日本はいつ仮面を取っ払って、戦前の治安維持法の名称を変えた復活によって、自由な言論活動や政治運動が取り締まられる事態となっても最早、おかしくはないような気がする。それでは現在、日本においてどのような組織が情報を監視して、警察を動かすようなある種、非民主的な工作活動を行っているのか、ご存じであろうか。公安庁だと思われる人もいるかも知れないが、公安警察の職務はテロ対策や危険人物の洗い出しや監視であって、現下の政治政策に直結するような内容のものだとは思えない。また警察組織が、事件性のない情報を収集、分析し、それを政治的に独自に解釈して動くことも文民統制の点から考えてもあり得ない。政治家はそういうこと(インテリジェンス)をする時間も能力もない。正解は内閣に直属する内閣情報調査室である。日本の諜報組織と呼ばれて日本のCIAを目指しているのかもしれないが、日本の政治的な特性というか限界で、世界中の情報を収集・分析して外交活動や経済力の向上、先端技術の導入に取り組むような、007のような格好のいいものではなくて、おそらくはやっていることのほとんどは国内のマスコミ対策なのである。内閣情報調査室の職員は、TVや新聞だけでなく刊行されている全ての雑誌に目を通しているとのことである。よって記者クラブに加盟しているマスコミだけでなく週刊誌などもいわば以心伝心か忖度か知らないけれど底流においては政治権力と結びついているのだ。よってSNSやブログ記事なども監視しながら、定期的に内閣総理大臣に情報を提言し、政治の指示を受けている機関が内閣情報調査室である。元々日本の民主主義とは本当の民主主義ではなくて、政界や財界、マスコミ組織によって恣意的に誘導し、作られたものなのであったが、前任の第二次安倍政権が長期化し、特定秘密保護法などの安全保障上の要請という大義から民主主義の根幹である自由闊達な言論活動が内向きに萎縮すると同時に中国政治の影響力の増大によって、日本社会そのものが社会主義化していっているものと考えられる。政治にとってはその方がやり易いし、統治しやすいのだ。内閣情報調査室はその急先鋒となって今後、対外的には何の力もない秘密警察になっていく危険性も小さくないと危惧される。いやもうすでにそうなっているのかも知れない。今の菅総理などは安倍総理以上にそのような内向きの権力志向が強いと見られる。恐らくは私のブログ記事も菅総理自身が、内閣調査室長から報告を受けて、このような内容の記事は怪しからんから地元の警察に働きかけをするように命じたのだと思われる。信じる、信じないはあなたの自由である。この世の出来事の全ては、人間の意識が生み出したフィクションなのだ。コロナという現象も恐らくはそういうものだと言えよう。存在すると言えば確かに存在し、存在しないと言えば、確かに存在していることの存在証明は難しいとでもいうのか。