龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

権力と市民生活

どうにも、こうにも警察官の不祥事、破廉恥行為が常態化しているようだ。覗きや痴漢などだけでなく、拳銃を同僚に突きつけたり、交通違反をもみ消す見返りに女性を紹介しろと要求するような行為があるのであれば、もはや警察組織に自浄能力はないと看做すべきである。
我々、一般市民が直視しなければならない真理は一つである。閉鎖的で硬直化した権力構造は、必ず腐敗するのである。それが“正義”をモットーとする警察組織であっても、風通しのないままに放置されれば正義の仮面を被った悪行の巣窟となるであろう。今や冤罪などあって当たり前である。もちろん現在の警察が全面的にそうだとまでは言わないが、かなりそれに近い状態にあると言えるのではないであろうか。
ならば社会的にどう対処すべきなのか。これは本来、喫緊の問題である。悠長に傍観していてはならない。
警察は、軍隊と同じように厳格な序列に支配された縦割り組織なのであるから、署員に問題行為が発覚した場合、その問題の程度にもよるであろうが基本的にはその地域を統括する警察署長が管理責任を問われなければならないのではないのか。警察の腐敗構造を粛正するためには、署員が不法行為を犯した場合、直属の上役管理者が連座的に厳しく罰せられるべきである。今や暴力団の組長が、組員が犯した不始末に対して民事上の使用者責任が問われる時代である。常識的に考えても警察管理職の管理責任が甘く見逃されていいわけがない。
先日、仕事関係の人から聞いた話しであるが、地元に不法駐車禁止の広報センターが出来て、そこで常時流されているビデオ映像には監視取締員に対して暴言があった場合にも逮捕するとの内容があるとのことであった。幸い、私は駐車禁止で罰金を払ったこともなければ、免許証の色もゴールドであるが、この話しを聞いて腹が立って収まらない。逮捕の意味を分って言っているのであろうか。公道を駐車場代わりに使っているような悪質な違法駐車ならともかく、真面目に仕事をして税金もきちんと納めている会社や人間に対して通常業務に支障が出ざるを得ないような取締りが現在、行われている。警察組織は自分たちの堕落ぶりは徹底して棚に上げておきながら、善良な市民をそう簡単に逮捕するなどと強権的な威圧をするとは怪しからぬことである。市民社会における取り締まる立場と取り締まられる立場の正当なバランスがまったく保たれていないではないか。
このような歪んだ国内秩序の背景に“何を見るか”において、我々一般市民の知性が問われているのだ。それは民主主義の質を向上させ、生活レベルを劣化させないための防御壁としての知性である。日本の国家権力は、外に対して示せない威信を内なる善良な市民に振り向けて権力機構としての国家的な体裁を取り繕う必要性に迫られているのであろう。警察の風紀や捜査能力における劣化は、日本という国家機構衰退の縮図そのものだ。警察が、ひいては国家が威信を保持するために、弱い者虐めのように市民生活に介入しなければならなくなる。善良な人間に対する権力発動のハードルはどんどん低くなり、一方で権力の内部はどうしようもないほど腐敗してゆく。権力を監視する立場のマスコミも基本的にこのような圧制のラインに乗っかっているので、大衆に対して誘導や洗脳ばかりをするしかない勢力に成り下がっている。これが日本の現状なのである。近年の制度的な改変は、全てこの流れの中にあると見られるものである。たとえば殺人罪の時効が廃止されたが、遺族の心情を慮れば已む無しという理屈は、権力側にとって都合のよい大衆誘導そのものである。卑近な例えであるが、警察の捜査は学生にとっての夏休みの宿題のようなものであろう。夏休みが終わるという期限があるから、何とかその間に済ませなければならないというモチベーションが生じるのである。期限はありませんなどと言われれば、その宿題はやらなくてもいいですと言われているのと同じである。現実に時効成立寸前に迷宮入りしかけていた難事件が急遽、解決したという事例は多い。殺人罪の時効が廃されれば警察の動きはどのように変化するであろうか。おそらく凶悪な殺人事件が発生したとしても、当初の2~3年は特別捜査チームを作って犯人検挙に全力を尽くすであろうが、7~8年経っても事件解決に至る目処が見えなければ、実質的に警察は匙を投げてしまうであろう。そして時がさらに経過すれば、事件はさらに風化し、解決の可能性がほぼ0になるであろうが、時効がなければ警察の敗北と責任はいつになっても永遠に確定しない。
20年経っても、30年経っても警察は、「我々はその事件については解決に向けて鋭意、努力している最中であります。」と発表するであろう。そのような事態において警察の怠慢や能力欠如が恒常的に隠蔽されるであろうことと、今、まさに殺人の時効が廃止された制度上の改変は権力内部における補完関係にあると見れるものである。
そして一方では、国家が失われた威信を回復するための手段としての市民への圧制は、さらにマスコミの洗脳との協調関係の中で強められていくことであろう。政治がマスコミに対して弱腰なのはそういうところに一面があるのだと考えられる。私が“柔らかなファシズム”と呼ぶのは、このように国家的な権威保持の犠牲として、欺瞞に満ちた市民抑圧へ絶えず導かんとする、全体的な社会の有り様のことなのである。私が憲法9条改憲を主張する理由は、本質的に国が独立し得ない条文が、国内において権力と市民生活の関係性を歪めざるを得ないことが、そしてその結果国民が不幸になることが“分る”からである。政治を批判することは誰にでも出来ることである。また素直に社会の表層的な建前を信ずることは美徳でも何でもない。権力とはまったく無縁の我々一市民が、社会全体を俯瞰した本質的な洞察力を持ち得なければ、日本はあと20年も持たずに存亡の危機に晒されるであろうことを私は予想するものである。