龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

尖閣ビデオ問題について

ばたばたと忙しく、思うように文章を作成する時間が作れなくなってきた。
しかし私が何を書こうと、書かずとも相変わらず日本の政治は酷い状況である。もう呆れて何かしら意義のあることを自分の言葉で表現しようという気持ちすら消え失せつつある。黙然と沈黙の抗議を続けるのも一つの方法かも知れないが、やはり最低限の言葉を国民の側から発してやらないことには、この国の統治機構は自浄能力を回復するどころか混迷の度合いを深めるばかりであるようだ。
尖閣ビデオの問題については、国民の知る権利と公務員の守秘義務違反との対立軸から各種メディアにおいて論じられているようだが、その視点は本質から少しずれているように思われる。正確に言うと、“ずれて”いるのではなく、“ずらされて”いるのだ。まあ、これはメディアによる大衆誘導の常套手段であるが。本日の朝日新聞、朝刊に、立教大学社会学部教授、服部孝章氏(メディア法)の以下コメントが掲載されていた。
“もし、新聞やテレビがこの映像を入手して報道していたら、その是非は議論になっても、情報提供者が刑事責任を問われるような事態にはならなかったのではないか。”
まったく、その通りである。そして、それこそが尖閣ビデオ問題の本質である。新聞やテレビがスクープとして報道すれば、情報提供者は当然のごとくマスコミによって秘匿されるであろうし、政治や警察もそれ以上は追及しようとしないであろう。なぜならマスコミ組織は日本の権力を監視する立場である以上に、権力機構そのものであるからである。そして、そのようなマスコミにスポンサーとして大企業が資金提供していることも重要な要因である。なぜなら大企業は、一方で政治献金などを通じて政治に隠然とした影響力を有しているからだ。マスコミと大企業と政治、そして警察組織、それらの水面下の連携で日本の正義と秩序が保たれている間は、今回のようなビデオ公開の事態に際して、多少の波風は立つであろうが、犯罪捜査として犯人を割り出し逮捕するようなことまでは考えられない。ネット情報から、要するに制御不能な場所から日本の政治に大打撃を与えかねない映像が無許可で公開されたことこそが今回の問題の本質であり、言い換えればそれ以外は何の問題でもないのである。公務員の守秘義務違反など厳密に言い出せば、新聞やテレビニュースの報道のほとんど全てが絡んでいると言っても過言ではないのではないのか。ところがメディアが報道すれば国民の知る権利を保護するとの大義名分が立ち、ネット情報から漏れれば犯罪とされてしまうことになる。
確かに何でもかんでもネットで暴露されれば良いというものでもないであろうが、今回の尖閣ビデオの件に関して言えば、日本の総体的な国益や国際社会での役割を考えれば早急に公開すべきであったとするのが筋道のはずである。仙石や菅の自己保身や民主党政権の延命を、日本の国益に摩り替えられては国民が困るのである。尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件とビデオ映像公開の問題は、菅政権の本質でもある。日本のことも、日本国民のことも1ミリグラムたりとも歯牙にかけず、ただひたすら石にかじりついても一旦手に入れた権力と栄華を守り抜こうとする。
国民を馬鹿にするのもいい加減にしたまえ。