龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

小説『火花』について

これは本当は言いたくはないのだけれど、勇気を持って告白すれば・・・、又吉直樹さんの『火花』を読んだ。書店で本を買うのは恥ずかしかったので、電子書籍を購入して読んだ。いや、正直に言えば書店に足を運んだのである。大阪のJR天王寺駅隣にMIOというショッピングビルがあってその9階に旭屋書店が入っている。先日、行くところがあった帰り天王寺駅から乗車する機会があった時に、旭屋書店に立ち寄って又吉さんの『火花』を買おうと、なぜかふと思い立ったのである。しかし私は以前から、世間を賑わしているいわゆる流行本を買うということにものすごく抵抗があるというか、とにかく恥ずかしいのである。それで暫し、逡巡したのであるがエロ雑誌やアダルトDVDを買うことの恥ずかしさに比べれば取るに足りないことだと自らを鼓舞して、とにかく書店に向かうことになった。ところが実際に売り場まで来てみると、また気が重くなってきてどうしようかと迷うことになった。色々と考えた挙句、『火花』を1冊だけ買うから恥ずかしいのであって、何冊かの本に紛れ込ませてレジに渡せば恥ずかしさも軽減されるであろうという結論に至った。『火花』の他に2冊別の本を買って、『火花』を上と下からサンドウィッチのように挟み込んでやろうという作戦に落ち着いたのだ。そこで先ずパン生地に相当する本から探すことにした。何でもよかったのだが、適当に選んで、帚木蓬生さんの『悲素』と筆坂秀世さんの『日本共産党中韓 左から右へ大転換してわかったこと』に決めた。それでは中身の『火花』を買ってとっとと帰ろうと辺りを見回したのだが、おかしなことにどこを探しても肝心のその具が見つからないのである。おかしいなあ、と思いつつも店員に聞くのも恥ずかしく、そもそも店員に聞くくらいなら、今自分が何のための作戦に取り組んでいるのかわからなくなってしまうので、途方にくれて2冊の本を手に持ったまま、又吉さんの広告写真が置いてある平積みの売り場のあたりでぼんやりとしていたのであった。そうしていたところ思わぬことがあった。人生というものは、自分が求めていながらに否定しようとしたり、目を背けようと矛盾した態度をとっているとその対象は不思議な形で現実世界に顕現するものである。宇宙の働きは玄妙にして人智では計り知れない。その時の私にはこういう風に何かが立ち現れた。

60代後半ぐらいのおばちゃんが不意を衝いたように私の傍にやってきていて、又吉さんの広告写真を指差して「この人、漫才師なん。」と聞いてきたのである。いきなりのことであったので私は思わずぎょとなって狼狽え、逃げるように半身になって、小さな声で「いや僕もよく知らないんですよ。」と言った。そうするとそのおばちゃんは、追い討ちをかけるように「この人は男前やねえ。」と私に同意を求めてきたのである。今まで数え切れないくらいに本屋には行っているが、こんな風に誰かから話しかけられたのは初めてである。私は思わず、こらあかんとその場から退散したのであった。そしてそこから5メートルぐらい離れたところで別の本を見ていると、そのおばちゃんがまた別の人に「この人、漫才師なん。」と聞いている声が聞こえてきた。聞かれた人は女性のようでしばしその会話を聞いていると、「売り切れ」という言葉が何度か聞こえたのであった。驚いたことにどうも『火花』は売り切れであるらしい。その後、レジの近くに移動してみるとまた店員が別の客に『火花』は売り切れです、と説明しているのが聞こえた。そういうことでその日私は仕方なく、中に挟むべき具を失った二冊の本だけを買って帰途についたのであった。作戦は失敗に終わったが、微妙な恥じらいが欠落している圧倒的多数の大衆のおかげで、私は人生のささやかなる苦行の一つから免れたのであった。

その後、電子書籍をアマゾンから購入して(最初からそうしていればよかったのだが電子化されていることは知らなかった)読むことになったが、当初の予想とは異なり、最初の2~3行を読んだだけで私の胸につかえていた黒々とした塊が化学反応のように氷解していく感覚があった。確かにそこには色物の余技ではない正統的な文学の気配と力量があった。特に冒頭の熱海での漫才の場面は、瑞々しい美しさがあって感心したものである。又吉さんの分身である徳永と徳永が師匠と仰ぐ神谷の交流も面白くて読み応えがあった。これは確かに一つの文学であると認めざるを得ない。これから読む人もいるであろうからあまり詳しくは述べないが、全編を通して私が受けた印象で言えば漫才の感覚と文学が融合した軽妙さは、どこか織田作之助に通じるところがあって「平成の織田作」と言ってもよいような新しさと可能性が感じられた。読む前の私はどうせ大した作品ではないであろうと考えていたので、あれやこれやと的確な酷評で、どうして今の文学がダメなのか、新刊本が売れないのかまで押し広げて説明してギャフンといわせてやろうと意気込んでいたのだが、読んでしまえば面白かったので拍子抜けである。実に面白くない。ただまあ敢えて言えば、まとまりすぎていると言うか、優等生的とでも言うのか、「よく出来ました。花まるの100点満点です。」と公文式学習塾に通う生徒が先生に褒めてもらうような作品であるとも言える。正に徳永の漫才のような作品であって、神谷のように自由奔放で常識を覆すような爆発的なエネルギーや才能は感じられない。私はどちらかというと優等生は嫌いだからな。不良が好きな訳でもないけれど。まあ、そんなところかな。