龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ノーベル文学賞と日本の特殊性

村上春樹氏は、ノーベル賞には縁がないんだな。何年も最有力候補と言われ続けながら、取れない。別に私には興味はないし、取って欲しいという気持ちも正直なところあまりないんだけれど、思う所、感じる所はいろいろある。今回はそれについて述べさせていただく。まずノーベル賞と言っても結局は人間が選ぶことで、特に文学が対象になると厳密な基準がある訳でもないであろうから、適当といえば何だけど、要するに選考委員は村上春樹には、世間の下馬評の高さは別にして与えたくはないんだな。そういう声なき思惑みたいなものはもう随分と前から私には何となくと言うか、いやはっきりと感じ取れているものである。それではその理由が何なのかということであるが、これも私の勝手な推測ではあるが、村上春樹の作品の文体はポップというか、大衆的なテイストで作品が読者を選ぶという性質のものではない。だからグローバル的に知名度があって、人気が高くて、日本では村上氏の新刊本が発売されれば書店前に徹夜して並ぶほど(私にはなぜそこまでするのか信じられないのであるが)、爆発的に売れるのであるが、権威主義的な目で分類すると、誰もが日常的に読んでいる軽い読み物という印象がある。だからノーベル賞には相応しくないということはできないであろうが、選考委員の心理的な抵抗感を否定することも難しいであろう。もう一つは村上氏は2009年にイスラエルエルサレム賞を受賞するに際して、イスラエルを批判する政治的なスピーチをしたことにある。ユダヤ機関の陰謀がノーベル賞の選考に圧力を掛けているとは言わないが、文学者はそういう政治的な発言は公的な場ではしない方がいいんだよな。本人は作家としての良心に基づいた人道主義的な平和運動のつもりなのかも知れないが、現実的にはそんな発言をしたところで何がどうなるわけでもないし、傍目に見れば、ノーベル文学賞の受賞を意識したパフォーマンスのように見えてしまうところがある。たとえ村上氏にそういうつもりはなかったにせよ、そういう風に誤解されるような危険性のあることは、本当は避けるべきではあったのであろう。別に誤解されようと批判されようと、ノーベル賞受賞になど興味がないから言いたいことは言うというのであれば話しは別であるが、私が見るところではどうもそんな感じではなさそうである。やはりあのスピーチは軽率であったような気がする。そのスピーチがなければ受賞していたかどうかは分からないが、それでケチがついてしまったことは確かであるように私には思える。
もう一つは村上氏の作品に限らないことではあるが、今の日本の全体的な空気感というのか精神性みたいなものの中で、果たしてノーベル賞に値するような文学というものが生まれ得るのかという根源的な疑問がある。文学というものは所詮は虚構の世界である。しかしその文学を育む国家的な土壌なり環境が、平和であるにせよ虚構や欺瞞に満ちたものであれば、必ず文学の中にも必ずそのような「インチキ臭さ」が投影されてしまってドメスティックに読まれている分には問題ないのかも知れないが、普遍的な価値を認める評価になると何か引っかかってくるものがあるような気がする。評論家の江藤淳氏は、毎日新聞文芸時評を書いていた1970年代の時点で既に、「自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった。いわば作家たちは、虚構のなかでもう一つの虚構を作ることに専念していた。」との感想を名著である『閉ざされた言語空間』において記している。40年も以前の江藤氏のその見方は大変に優れた達見であると思われるし、私にもそのもどかしさや虚しさの気持ちはよくわかるものである。そしてその状況は40年前と比べて見ても、開かれ改善されているどころかより一層に閉塞化しているような気がするのである。そういう状況下で偉大な文学というものが生まれるであろうか。村上氏の作品の批判をするつもりはないが、大衆的に優れて読みやすい広告のような作品しか生まれてこないような気がするのである。村上氏が日本を脱出するように海外で生活しながら小説を執筆しているのも、そういうことを本能的に感じ取って、日本的な足枷を自らの作品から拭い去ろうとしているようにも感じられる。しかし悪く見れば、そのような姿勢は表現者として日本という国家に向き合ってはいないのである。日本という国家に向き合っているのではなくて、戦後のイデオロギーに即しているだけなのだ。その精神性が果たして日本を離れて世界に評価されるか、というよりは真に咀嚼されるのかという問題が横たわっているような気がしてならない。私の見方では、はっきり言ってノーベル賞の選考委員は村上氏に受賞させたくはないのである。小説家ではないボブ・ディランを選んだのも、村上春樹に受賞させたくないという動機が背景にあったのであろうし、今回のように両親が日本人で、日本で生まれた日系人カズオ・イシグロ氏が選ばれたのも、村上春樹を外したことの人種的なエクスキューズであるような気がする。嫌われているというのではなかろうが、恐らくは今の時代の日本人の感覚が、世界の標準からちょっとずれているというか、素直に受け入れがたいところがあるような気がする。やはり日本と言う国は、いい意味でも悪い意味でもちょっと「特殊」なのであって、その特殊さが偉大な文学の出現を遠ざけているのであろう。しかしこのような選考委員の心理を代弁するようなことを言っていると、来年あたりは選考委員の抵抗感が薄れてきて村上春樹氏が受賞するような気もする。仮にそうなったとしても、別に私に感謝して欲しいなどという気持ちなど毛頭ないのでご安心を。