龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

新聞の弊害と新しい日本のあり方について

怪しい。 あ・や・し・い。
我々国民は、違いのわかる男(女)になどなろうと思わなくともよい。違いなど放っておいても自然と顕になるものだからだ。しかし、怪しさはそうではない。自発的な魂の働きを持って、事や情報と対峙しなければ、怪しさは永遠に正当性という名の装飾に包み込まれたままだ。
さて、それでは問ふが、どうしてこれほどまでにメニューや食材の偽装表示が、次から次へと“今”発覚してくるのか。もちろんこういう問題は大体において芋づる式に発覚してくるものではある。しかし、それでもやはり怪しい。そもそもホテルやデパートなどのいわゆる高級品や質の高いサービスをモットーとすべき企業の多くが、偽装表示を慢性的にしていることの社会的な背景は、モラルの劣化ということもあるが、根本的には消費不況のせいである。何も私は景気が悪いから、企業のモラル劣化が許されると言っている訳ではない。それとこれとは別問題だ。どんなに景気が悪くとも、多少値段が高くとも質の良いものを求める人々は日本にはたくさん存在するのであるから、“信用”を売っているような企業が、客に嘘をついてはいけない。決して許される事ではないし、そのようなごまかしは、企業にとっては最終的に自殺行為でしかない。しかし倫理的な視点はともかく、社会学的に見れば、企業は一般的には売上が低迷したり、頭打ちになって伸びなくなってくると、人減らしをするか利益率を高めるための操作をする以外にないものである。利益率を高める方法は高く売るか、原価を引き下げるかのどちらかであり、アベノミクスだ、インフレターゲットだなどと言っても、現時点においてはデフレ経済はまったく転換していないものであり、景況感も輸出企業はともかく内需はまったく改善していない。だからこそ日本の名立たる百貨店やデパートにこれほどまで広く、偽装販売が蔓延しているのだと見れるものである。一方では、ユニクロのようなデフレ企業は好調に売上を拡大させ続けているようであるし、100円ショップも健在で町並みの風景から、その姿をフェイドアウトしてゆく気配は見られない。つまりこれら全てのことが、日本の景気が実質的には改善の兆しが見られていないことの確かな証左なのである。ところが新聞やテレビなどのマスコミは官僚が作成したデータで、景気が回復基調にあることの世論形成に勤しむばかりであったのが、消費税増税が確定した途端に、雪崩を打ったかのように、景気が良くないことの結果でしかない偽装表示の問題で紙面や画面を賑わせている事態は、どう考えても不自然である。そこにどういう“からくり”があるのかと想像するに、恐らくは新聞の軽減税率と深く関連しているのであると考えられるものである。新聞業界、新聞協会は何としても新聞に軽減税率を適用させようと目論んでいる。ところが素朴な馬鹿というか、あまり利口でない人々以外の判断力のある国民の反対意見はあまりにも強固であり、広く合意が得られそうにないことを見てとったマスコミ(特に新聞業界)は、このように食品偽装の問題を“今”いたるところから掘り出してきて、大きく取り上げることで国民全般の批判や憤りの矛先を作為的に設定し、その影でどさくさに紛れるようにして政治との癒着の中から新聞の軽減税率適用への流れを年内に固めてしまおうとしているのだと考えられるものである。そういう社会操作が日本のマスコミの本質なのである。僅かばかりの悪知恵があれば、新聞やTVニュースの報道を通じて、業界に利益を誘導する情報操作の方法などいくらでも考えられるものである。それを新聞は公共性や民主主義の要だから、軽減税率を認めよとは何事かということだ。思い上がり、傲慢も、恥知らずなほどに甚だしいと言えるものである。ここまでマスコミが平気で国民を馬鹿にした態度が取れる要因は、まず第一に長年の自由競争が制限された特殊な保護環境によるものである。業界内だけで視聴率や部数の競争をしているだけだから、業界の利益が公共性という大義名分のもとでの情報操作によって一義的に優先されることとなり、国民全般の利益や生活がマスコミ情報に反映されずに蔑ろにされる傾向が大きい。大手マスコミの過保護環境と恣意的な世論誘導体質を鑑みれば、軽減税率適用どころか、新たなマスコミ課税を創出するべきである。製造業と違って、新聞社や放送局は国外に脱出できないのだから、今すぐそうすべきである。国家財政が、本当に逼迫しているのであれば、真の競争をしていない、そして国外に逃げようのない業界に特別の課税をなすべきことは当然である。そしてそれが政治主導の本来のあるべき姿ではないのか。
もう一つの理由は、民主主義の在り方にとってより根源的な問題なのだが、実際に、こう言っては何だが、国民にはマスコミ情報に操作されるだけの善良な馬鹿が多すぎるということである。というよりも民主主義は、素朴で善良な馬鹿によって構成されていると言っても過言ではない。だからこそマスコミはそのような国民の馬鹿さ加減にどこまでもつけ込んでくることとなるのである。身も蓋もない言い草のようで不快に感じられるかも知れないが、それは一つの絶対的な真実であると私は思う。毎日、天声人語を専用のノートに書き写して満足しているような人々が、馬鹿と言っては何だが、社会の本質とは無縁に生きている人々の典型とも言えるであろう。朝日新聞だけでなく、各新聞社はそのように自社の論調を素朴に疑わず、忠実であるだけの読者を他社よりも多く、囲い込もうとし、またそれが彼らにとっての最大の成果であり、報道を通じた政治運動であると言えるものである。しかし国民の世論や思想がマスコミに大きく束ねられ、また官僚によって政策が強力に牽引されていれば、日本が成長できていた時代はそれでよかったのであろうが、今はそういう時代ではないのである。新聞業界の体質の古さが日本の足を引っ張っていることは歴然とした事実だ。日本の新たな飛躍のためには、新しい思想が必要であるが、その新しい思想の芽を潰しているのがマスコミであると言えるのだ。だからこそ今の日本には時代を切り開くような力のある文学も生まれてこないし、言ってみれば、村上春樹氏などでは、ノーベル文学賞を取れなくても当然なのである。もちろん私自身も広義の意味においては、馬鹿の一人なのかも知れないが、とにかく日本人全体が自分自身の馬鹿さ加減も含めて、社会や情報との根本的な関わり方を見つめ直す時期だと思う。一人一人が考え方を改めていかないことには、いつまで経っても日本は、今のままの日本である。