龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

堕落の頂上から見る風景

それから付け加えて言えば、5月7日の捜索開始の時点から捜索人員の規模が小さ過ぎる。私が知る範囲の報道記事では、警察、消防署、それから有料と思われる山岳救助隊の人員合計数が一貫して40人程度の規模であった。行方不明後、生存の可能性がほぼ消滅しているであろう10日から2週間経過以降であればその程度の数かそれ以下であってもやむを得ないと考えられるが、親子の生命のタイムリミットと見なされる4~5日程度は、日付で言えば5月10日まではその3倍ぐらいの人員が出動されなければならなかったのではないか。120人ぐらいの規模で拡声器を使って呼びかけ、警察犬も使って甲哉さんが5月5日にビバークしていたであろう松平山頂上と五頭山を結ぶルートの中間付近を起点として捜索していれば、おそらく親子は無事に救出されていたのではないかと思われる。しかし私が映像でちらっと見た感じでは拡声器も所持されているようではなかったし、警察犬も同行されてはいなかった。前回に述べた警察の報告怠慢や重要情報伝達の不手際なども含めてのことであるが、当初から警察はやる気がなかったと言えば語弊があるかも知れないが、モチベーションが低かったものである。むしろ地元住民の心配と関心の高まりを受けて徐々に警察はモチベーションを高めていったようにも見受けられたものだが、遭難者の救助という事の性質上、それでは手遅れであるし何の意味もないものである。
これは何も新潟県阿賀野署だけの問題ではないが、警察は表立っては言わないであろうが、本音のところでは何で警察が自己責任で遭難した人間の捜索をしなければいけないのだと考えているのだと想像される。警察の職務は、刑事事件の捜査と犯人や容疑者の検挙であって、行方不明者の捜索、救出はたとえ生命に関わることであっても本来の職務ではないと考えているのであろう。だから今回のようなケースでも警察組織が自主的、積極的に人員を出動させようとしない姿勢が基本にあるのだと考えられる。警察の言い分とすれば登山中に遭難して死んだり行方不明になって未発見の人間は年間に数千人にも達しているので、それらのことばかりにかかずらっていれば、警察本来の仕事が出来なくなるということはあるであろうし、それはそれで理解できなくもない。しかしどうなのだろうか。何も対象が小さな子供であれば大量の警察や時には自衛隊を出動してでも救助活動に全力を尽くすべきで、いい歳をした大人の場合であれば本人の自己責任だから見捨ててもよいということにはならないであろうが、社会や権力は情緒的な問題としてではなくとも人道的に運営されるべきであり、少なくとも今回のケースで言えば40人規模での捜索開始は、少なくとも私の目にはやる気のなさ、モチベーションの低さの現れとしか映らないものであった。40人といっても新潟県警阿賀野署がまるまる40人を派遣しているわけではない。地元住民と思われる人の書き込みによれば当初からその内訳は有料の山岳救助隊の方が多かったという情報もあったので、警察の人員はおそらく多くても12~13人といったレベルだったのではなかろうか。今更、このようなことを詮索しても仕方のないことであることはわかっている。警察には警察の言い分や釈明があるであろうし、遭難者の救助活動には必ず警察が何名以上出動させなければならないなどと杓子定規にルール付できる性質のものではないことはわかる。変にルールや法律で規定してしまえば、現実には対応し切れなくなって、ルールそのものが破綻してしまうであろうから、ケースバイケースでしか対処し得ない性質の問題であると言える。それでは警察組織が消極的、或いは怠惰なのであれば、誰が警察組織に命令して人命救助のために機動力を十全に行使できるのかといえば、それは知事でしかあり得ないものである。ところが今回のケースでは新潟県の前知事は本当に情けないことであるが買春スキャンダルで辞職していて、警察に命令すべき知事の機能が空白化していたものである。普通に考えれば副知事か役人の代理の者が代わりに動けばよいものであるが、田舎者は自分第一でそこまでの気概も持ち得ないのであろうか。そういうことで今回の親子の死は全体で見れば何百、何千という事例の中の一つなのかも知れないが、その背景を考察すれば、権力の堕落、腐敗、無気力が構造的な要因となって救われるべき命が救われなかったということが、山頂から見渡す風景のように明瞭に見えてくるものであり不憫で不憫でならないものである。