龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

人間らしさの社会条件

国史訓話ではないけれど、為政者に徳がなければその為政者に支配(統治)された人民が不幸になるという摂理は、まさに今の日本のためにある教訓なのではなかろうか。知事が買春で辞職に追い込まれ行政のトップが空位になっている時に、親子が登山中に遭難してその家族が警察に報告しているにも関わらず、警察署員は緊急事態と受け取らずに半日近くも放置する。そのおかげで捜索開始が丸一日遅れているのに、家族からの重要な情報がなおざりに扱われ、見当違いの間違った場所から捜索が行われてまた丸一日が無為に経過されている。その二日間の、5月7日と8日の渋谷さん親子の不安や苦しみを想像すると、会ったことも見たこともない他人事とは言え私は激しい憤りを禁じ得ない。所詮は他人事なのだから可哀そうでしたね、ご冥福を祈りますの一言で済ませる気持ちもない訳ではないが、何と言うべきかこういうことの背景にある堕落や欺瞞に対して黙っていられない気持ちである。といっても誤解のないように断らねばならないが何も私は誰が悪いと言うつもりはないものである。むしろその時々で誰を悪者にするべきかという為政者的な思考回路そのものがこの世における悪の根源であるようにすら考えられるものである。なぜならそのような思考様式の下では必然的、最終的に力の弱い者が犠牲になって見捨てられなければならないという社会システムの土台が揺らがないからである。表面上の見かけや建前がどうであろうと正義の観念とマスコミ情報をうまく取り繕って便宜的に悪と善がインスタント食品のように即席で作り上げられる世の中である。何で未だに森友学園の問題を引きずって審議を継続させているのか、その必要性を論理的に説明できる人間など一人もいないのではなかろうか。カフカの迷宮に彷徨いこむ不条理小説『城』ではないけれど、そういうことをもっと日本人は考えなければならないのではなかろうか。話しが抽象的でわかり難いという人は、意識の視点が低いのである。視点が低ければ見るべき社会システムと全体意識が生み出す風景と言うものが見えてはこない。山での遭難と同じように人生の困難や不幸においても道に迷った時は麓に降り立っていくのではなくて山頂を目指して意識の視点を引き上げていかなければならない。山頂に立った時には、何で自分が道に迷って困難な境遇に陥らざるを得なかったのか、その社会的なからくりが見えてくるであろう。恐怖に駆られて本能的に下界の麓に降りて行こうとするから、富士山麓の樹海ではないが右も左もわからない迷路に彷徨いこんでしまって人生の出口が見えなくなってしまい最悪の場合、待ち受けているのは死しかないということになる。そのような迷宮の中では誰も助けてくれないし、誰かの善意というものがあったにせよ本質的な解決に役立つようなものではない。道しるべは自分の意識でしかないものである。そして意識が人生の運命を作り出しているのだ。社会と言うものはある意味では、不幸を生産する巧妙な装置である。そして為政者や権力者はその社会装置の設計に携わっている者なのだ。現状の社会システムは、人間の不幸を必要としているのである。
抽象的というキーワードで思い出したが、私が言っている内容は自己啓発本を大量に出版している苫米地 英人流に言えば「抽象度を上げる」ということになるのかも知れない。苫米地さんは情報としての世界を見る抽象度を引き上げていくことによって自分の運命や未来を書き換えていくことができると、確かそのような内容のことを述べていたように記憶している。それで思うに私は昔から誰に言われた訳でもないし、誰の本に感化された訳でもないのだけど、世の中を見る或いは理解する抽象度は人よりも高かったと思う。そういう性格と言ってしまえばそれまでだが、そのような見方や姿勢が自然と身についているというか、むしろそこから離れられない頸木のようなものが自分の中には確かにある。しかし自慢ではないが別に私は昔も今もバラ色の人生を送っている訳ではないし、金持ちでもない。苫米地さんが言うように抽象度を上げる瞑想をすることでゲームソフトのステージをクリアするように自分の人生を書き換えられるとは私は考えていないし、また書き換えたいとも思わない。不幸なら不幸のままで結構だ。しかしこういうことは言えるのではなかろうか。確かに世界を見る抽象度を上げて、意識を高めていくと現実的には何一つとして変化はなくとも不幸という観念や苦悩や孤独は薄らいでいく。なぜならある意識の地平から見渡せば、不幸も孤独も幻想であると言うことがよく理解できるからである。仏教的ではあるが幻想に過ぎないものに実体性があると信じているから苦しいのであって、幻想であることの正体を一旦看破してしまえば不幸や孤独と言う観念と戯れる必要性も消滅してしまうものである。但し必要性がなくとも私のようにそのような負の観念と戯れたいと思えばその地点に留まることも出来るであろうし、そうなってくると半ばは趣味の問題である。趣味などといえば言葉は悪いかも知れないが、要するに選択性があり自由度が高いということであって、趣味でない不幸や孤独は本当に苦しいのである。だから抽象度と意識の視点を高めていく努力をすることは大切なのである。しかし私に言わせれば、自分の人生や目の前の現実を書き換えていくことができるかどうかは別の問題だと思われる。幻想を幻想と見極めたところで、幻想が魔法のように金や幸福に化けることはあり得ない。金や幸福を求めるのであれば世俗の麓に降り立って、幻想では在り得ない実体的な努力なり追及をしなければならない。そしてそのような実体的、即物的な生活をしている間にまた煩悩や執着心に苦しめられるようになってくる。人間の生活とはつまるところその両極を往き来する繰り返しなのではなかろうか。まるで芥川龍之介の小説である『杜子春』のようなものである。芥川は天才だからそういう世界の実相と人間の愚かさがよく見えていたのだと思われる。
抽象度を上げるということでもう一つ重要だと私が考えることは、自分一人が意識の視点を引き上げても最終的には意味がないということである。孤独であろうと不幸であろうが、人間は一人では生きられない。自分と世界の連関を見る抽象度を上げていくと共に社会意識の抽象度も徐々にではあっても上昇させていく方向性の働きかけをしていかなければならない。すぐ近くの場所で親子が遭難していても救助できないことは、子供が虐待で親に殺されたり、学校のいじめで自殺に追い込まれることを防げないことと皆、同じである。抽象度の低い見方で見れば、法律であるとか或いは行政が個人のトラブルやプライバシーにどこまで踏み込んで介入すべきかと言う次元の問題に見えるであろうが、そうではない。あるレベルの意識なり視点で見れば人間の不幸を必要としている社会(政治)体制の在り方や、社会意識の抽象度を引き上げさせないための妨害工作、大衆操作というものがはっきりと見えてくる。そもそも法律とか社会制度というものは誤解している人が多いようだが権力や統治機構のためにあるのである。本質的にそうだとは言わないが、少なくとも現状の日本では正にそうだと言えよう。法律の不備に問題があるのではなくて、社会意識の全体的な低さのせいで小さな子供たちの命が犠牲になっているのである。子供たちの命だけではない。例を挙げれば切りがないが、たとえば日本では知人の借金の連帯保証人になって自殺に追い込まれた人が無数に存在する。その人自身には何の落ち度もなく、真面目に生きているだけであるのに、善意で押した印鑑一つでたくさんの人が死んでいるのである。このような非人間的な制度を採用している国は先進国家では日本だけである。銀行などの金融機関は債務者から利息を徴収して利益を上げているのであるから、貸し倒れのリスクを負うのは当然のことであって何で無関係の人間を巻き込む必要があるのかということである。そういうことも社会を洞察する意識や社会意識の抽象度が低ければ、一般的、世俗的な社会通念に取り込まれてしまって腹も立たないし、無条件に受け入れてしまうものなのだ。またそれが日本という国の市民的なレベルなのであろう。ある意味では意識が全てである。我々は社会意識の市民的な上昇を追及すべきなのだ。それが出来ないのであれば人間は、単に人間という生物学上の分類に組み込まれただけの動物に過ぎない。