龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

整形手術と美の基準について

歌舞伎町の27歳キャバ嬢が、回数にして100回以上、合計金額では二千万円もの整形手術を繰り返して売り上げNO1とキャバクラの経営者に成り上がっていくTV番組を見た。その女性は小さな頃は容姿のことでゴリラと言われて、二階からバケツの水を掛けられるなどのいじめに遭っていたという。それが整形手術で綺麗になってからは自分に自信が付き、自分の美しさを一人でも多くの人に認めてもらいたいがためにキャバクラの仕事を始め、今では客の男性から頻繁に高級バッグや時計をもらったりの生活で、どんなにイケメンで格好のいい男でも「抱けない男はいない」などと豪語する姿が映し出されていた。また整形している事実を全く隠そうとしないで堂々とカミングアウトしている姿勢が多くの女性からも共感を得ているということである。
この手のTV番組のことなので多少の演出や誇張はあるのであろうが、実際に今の時代は整形している女性が、全体のどの程度の割合なのかはわからないが増えているのであろうと思われる。私は整形手術が悪いことだなどとは思わないし、女性が少しでも美しくなりたいと考えることは自然な欲求だと言えよう。しかしこんなことを言っていいのかどうかはわからないが、整形手術を100回繰り返して、まだ足りないとか、もっと他の部分を直したいなどと考える心理は、ある種の中毒というか病理なのではなかろうか。もちろんそれだけの金があって自己責任でやっていることだから第三者が、それも男性がそういう世相に対して批判めいたことを言うことは社会的に許されないことなのかも知れない。しかし一方では健全な批判も必要だと思われる。100回は極端にしても、日常的に化粧するような感覚で気軽に整形する女性が増えれば、当然美容整形の医者は儲かるし喜ぶであろうが、そのような商業主義の暴走に問題はないのであろうか。私はどうしても顔のある部分にコンプレックスがあって、その顔と共には生きていけないとか、人前に出れないというような場合にのみ最低限の整形手術は推奨されてもよいとは思うが、貪欲に美を追求して際限なく整形手術を繰り返さずにはいられない中毒的な症状には、誰かが歯止めを掛けることも健全な社会の在り方だと思う。人の勝手だと言われればそれまでのことだが、根本的に本当の美しさとは何なのかということをこういう風潮に対して私は問い掛けたい。美しさとは、粘土細工のように造形だけで決定されるものであろうか。要するに人間は「物」なのかということである。確かに造形も美しさの一要素というか主要素であるであろうが、それだけではないであろう。今の時代にこういうことを指摘するとフェミニズム的にはアウトになるのかも知れないが、風俗で働いている女性やAV女優などにも、顔の造形的には美しい人はいくらでもいるが、そういう人はそれなりの気配なりオーラを纏っているものである。造形の美しさと内側から醸し出される気品は別次元のものだと思われる。整形手術を何度繰り返したところで、整形科医は神でも芸術家でもないのだからその造形に気品を生み出すことは不可能である。それでは延々と何十回も整形手術を繰り返すことは単に自己満足だけのことで、普遍的な美への追及からはかけ離れているとは見れないであろうか。美しさとは表面的なものなのだろうか。我々はどのような顔を美しいと感じるのであろうか。一般的にはシンメトリーな左右対称の顔が美しいとされている。生物学的にシンメトリーなデザインは健康的で、本能的に好ましく感じると言われている。しかしたとえば女優の綾瀬はるかさんは、顔をよく見ると左右の目の大きさが微妙に異なっている。しかしそれでもというか、それだからこそその微妙なアンバランスがアクセントになっていて、一目見ただけで忘れられないような無意識的な魔力とでもいうべき魅力になっている。こういう顔は整形では絶対に作り出せない。なぜならリスクが大き過ぎるからだ。そして綾瀬はるかさんのような顔こそが個性のある本物の美しさだと私は思うのだ。整形に反対の立場を取っているハリウッド女優のエレン・バーキンは、左右の口角の高さが微妙に不揃いである。どちらか一方が元々吊り上っているか、或いはそういう表情をする。映画のタイトルは忘れてしまったが、昔の映画でエレン・バーキンが片方の口角を上げて皮肉に笑っているシーンを見てたちまち好きになってしまった。今もその顔が忘れられない。男優で言えば、刑事コロンボシリーズで日本でも大変な知名度と人気のあったピーター・フォークは片方の目が義眼であったが、彼の顔には刑事コロンボの役柄同様に真実を射竦める隻眼の力強さと魅力が同居していた。美しさの正体とは何なのだろうか。私は内面の精神的なパワーと豊かさだと思う。そういう要素を持っている人は不均衡のアンバランスを魅力に変換して、自分だけの個性的な美しさを切り開いていくことができる。もちろん万人にできることではないことかも知れないが、万人にその可能性は与えられているのではなかろうか。整形手術はシンメトリーにしても、黄金比率にしても教科書的な一つの基準に則ってしか手を加えられないものだ。それ以外の基準は全て個人の主観でしかないからだ。そして結局、美の一つの基準で施された人工的な顔が、工場で生産される既製品のように大量生産されることになってしまう。これでは行き着くところは美の社会主義である。はっきり言って私にはKポップや韓国の女優の区別がつかない。興味がないからかも知れないが。結局、人間の顔の美しさとは進化論的に変化していくものなのかも知れない。進化論と言っても、生物的な進化ではなくて社会的な変遷である。それは一つの基準や価値観に収斂していって、そこから微妙に崩れていく個性化と多様化のプロセスなのではなかろうか。別に私は男だし、どうでもよいともいえる他人事ではあるが、こういう社会的な風潮に対して世の全ての男性がフェミニズム美容外科業界の圧力に委縮して何も言えないような世の中は、全然美しくはないと声を大にして言いたい。