龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

絶対的危機の損益分岐点

どうなんだろうか、結局「正しい判断」というものは、個々人の考え方や価値観の問題ではなくて、数学の「ABC予想」の証明ではないが、一つの解なり理論に辿りつける能力があるかどうか、ということではないであろうか。ということでここに一つの人類学的な難問が、特に日本において提示されている。新型コロナウイルスのオーバーシュート(爆発的拡大)を防ぐためには、どのような社会的な措置が講じられるべきであろうか。唯一の解は、検査数を増やして感染者を特定し、緊急事態宣言を発して感染が起こり得る物理的な空間や接触の機会を一定期間、最大限度に抑制することである。それ以外にこの問題の解はないのである。ところが日本の政治が、そして大衆の多くがその解に対して、疑問や躊躇があるということは、日本と言う社会がこれまで数十年間にも亘って、いわゆる「議論のための議論」だけに終始してきて、このような日本全体の存亡、全ての日本人の生命が危機に瀕する有事に際して、本能的、条件反射的に正しい判断を瞬時に採択する能力を完全に喪失してしまっていることの現れでしかない。感染症の対処ですらこの程度であるのだから、戦争や他国に攻め入られた状況において、日本の政治が何一つとして出来ないことは、はっきりと目に見えていることではないか。今こそ日本人はそういうことをよく考える時である。平時における議論のための議論など数万時間、数十万時間を費やしたところで、いざ有事の状況を迎えた時には何の役にも立たないどころか、無能や無力感を正当化する屁理屈にしかならないものである。日本が今、学習しなければならないことは、有事や緊急事態に際して、考え方や物の見方で事態を内向きにコントロールすることではなくて、危機に対処するのに必要な全体意識に速やかに正しく変換することではなかろうか。それは民主主義的な百花繚乱の主張などではなくて、ある種の訓練で一時的に統制されるべき性質のものである。危機が過ぎ去った後に、平時の意識モードに戻せば良いだけのことなのである。それが出来ないような国は、長期的に見れば滅んでいく以外に道はないものと思われる。コロナウイルスはそのの生物的な増殖によって、日本人が抱える精神的な未解明の難問を唯一の正解へと導き、証明しようとしてくれているのだから、ある意味では感謝すべきである。

「緊急事態宣言」については、強制性がないとか罰則を伴わないから発令しても、何も変わらないなどという見方は、それこそ正に、平時における議論のための議論の延長線上に位置するものでしかない。意識のモードが切り替わっていないからそういう考え方になるのであろうが、そういう問題ではない。それはそもそも問題を解く基本的な姿勢、方向性が間違っているのである。コロナの爆発的拡大を防ぐために、緊急事態宣言で何が出来るか、何が変わるかという発想ではなくて、一時の中国がやっていたように拡大を抑え込むためには、あれかこれかではなくて、今、出来ることはあれもこれも全てやらなければならないということである。よってたとえ強制性や罰則がなくても、緊急事態宣言の発令で新たに出来ることが一つでも、二つでも増えるのであれば、そうすべきなのである。それによって日本全体の空気感が僅かでも変わるのであれば、それを否定する理由などないはずである。また法令としての強制性や罰則の問題は、感染症の対処に関して言えば、必ずしも障害になるものではない。なぜなら営業活動や集会、外出などにおいて国が何らかの指示、命令を発したとして必ずしも全てが厳正に従わなければならないということではなくて、仮に全体の8割が従って、2割の人や店舗が無視をしたとしても、感染の性質上、8割が履行するのであればかなりの改善効果が見られるであろうからだ。従わない2割からクラスターが発生しないかどうかを注視、追跡すればよいのだから、そこに罰則がなくとも効率的に抑制の対処が為し得るということである。歩留りの論理が、感染症の抑止においてはそれなりに有効であるということだ。

とにかく今、我々は他人事ではなくて自分や自分の身内、家族の差し迫った問題として真剣に立ち向かわなければならない。今、安倍総理が緊急事態宣言の発令を躊躇して遅らせていれば、数か月後に、日本各地の体育館や講堂などで、数が多過ぎて焼却し切れない遺体が無数に並べられる光景に遭遇する可能性が何パーセントとは言えないが、決して小さくはないということである。誰もそのような悲惨な光景を見たくはないであろう。仮にそのような事態になった時は安倍総理と今の内閣の責任であることをはっきりと申し伝えておく。政治だけではなく、いまだ他人事のように考えている大衆に対しても伝えておきたいことは、子供のいる親であれば理解してもらえると思うが、仮に自分の子供が難病にかかったとして、臓器移植をするしか命が助かる可能性がない状況で、海外に行って数千万円や1億円もの金を払って手術をしたとしても成功する可能性が10%程度しかないとすれば、どのような判断、決定をするであろうか。多額の借金を背負ってまで僅か10%程度の可能性にかけるのであれば、手術をしても恐らくは何も変わらないであろうから、可哀そうだけれど短命の運命であったと諦めて、見捨てるに等しい判断を下すであろうか。もちろんそういう親もいるであろうし、別に私はそれを道徳的に批判するつもりはないが、やはり金や可能性の問題ではなくて、出来得ることは全て自分の子供のためにしてあげたいと考える親の方が多いのではないのか。単純、同列に比較できる問題ではないが、私は緊急事態宣言の発言も出来ることは全てやるという意思、姿勢の観点から見れば、何ら異なるところはないと思う。それを金の問題にして冷酷な判断に傾くように政治の判断を躊躇、逡巡させているのは、財務省などの官僚の感覚なのである。

引きこもって日本と世界を正しく洞察すべき時

4月に入って気温が上がり、桜が咲き散るころになって、個人的には予想していたことではあったが、1ヶ月前と比べてコロナの勢いは弱まるどころか、手の付けようのないほど拡散の勢いを増し、もう誰がいつかかってもおかしくはないような情勢になりつつある。一体このウイルスの正体が何なのかということについては、議論や追及をしても詮ないことだと言っては何だが、それは例えれば、火事の建物内部に取り残されて一刻も早く逃げ出さなければ焼け死んでしまうことが明らかな状況で、出火原因をあれこれ頭を悩ませながら考えているのと同じことである。放火されたのかも知れないし、使用電力の過負担でブレーカーが落ちずに電線から出火した可能性もあるが、そんなことを考えるよりもまず火と煙に包まれる前に逃げ出すことが第一である。そういうことで今回の新型コロナウイルスが自然に生じたものではなくて、人工的に生物兵器として作られたものが漏出した結果であることは、少なくとも私から見れば明白で議論の余地もないことであるが、その理由をあれこれと述べ立てることは今は止めておくことにする。火事の現場から逃げ出すように、とにかくウイルスの被害を終息させることだけに専念しなければならない。そういうことで言えば、とにかく日本の政治は、今更のことではあるが、このような危機的な状況においてそのダメさ加減が、雨に濡れた桜の花色のように濃厚に際立つとでも言おうか、全てにおいて思い切って、決定するということが出来ないのである。全てにおいてである。今、緊急事態宣言をどうして出さないのかと言えば、理由は単純なことで命令となると様々な補償問題が発生することを政治や政治の背後の官僚が恐らくは躊躇して踏み切れないということであろう。これが自粛要請であれば、個々人の自主的な判断と言うことになるので国が補償する必要性はなくなる。安倍総理がどのように説明しようとも、安倍総理だけの問題ではないが、日本の政治というものは、国民の命よりも財政を破たんさせないということの価値の方がより重いのである。政治やマスコミに洗脳されて夢見るように生きている人々には、幾らなんでもそこまで日本の政治は無慈悲で、非人道的ではないなどと信じ込んでいるのであろうが、そういう相手には何を言っても同じなので、世界に対して自分が信じたいように、考えたいように昆虫やカタツムリと同様のレベルで蠢きながら生きていればよいのだと思う。そういう人種の人々は、たとえ現世でコロナにかかって死ぬことになっても、政治や権力の性善説という幻想の内部で人生を終結させることとなるので、私のようなタイプの人間が世界のどこかに実在しているバンパイアのようにこの世に二百年も三百年も孤独に生き続けるよりも恐らくは何倍も幸福な人生であろうと思うのである。補償金をケチるための緊急事態宣言躊躇だけではない。PCR検査にしても同じである。医療崩壊であるとか、重症者を優先させるという意義はわからないではない。というよりもそういうことは一義的に守らねばならないことだとも言える。しかしそういう問題だけではないであろう。どういうことかと言えば、医療崩壊を防いだり、重症者を優先させる体制の「範囲内」で出来る限り検査数を増やして、無症状の潜在的な感染者を炙り出し、拡散を未然に防ぐための最大限の努力を日本の政治は、この2カ月ほどの間になぜしてこなかったのかということである。コロナだけに該当することではなくて全ての問題に言えることであるが、問題は常に両義的なのである。あれかこれかではなくて、完全に両立できなくとも緊急事態においては、両サイドから対処していく決然とした姿勢がなければ、一つの意義は見捨てられたもう一つの意義によって無効化されるだけのことである。ところが大衆は、日本の政治の詐欺的な世論操作によって、あれもこれもではなく、あれかこれかの二者択一の意義や正義が正しくて価値があると信じ込まされてしまっているものである。それで日本の政治が結局のところしていることは、これこそが日本的な特徴そのものなのであるが、現実に真正面から対峙することを回避して、問題を先送りにしているだけのことである。現実や実態を正しく見ようとしない消極的で卑怯な姿勢が、医療崩壊から守ったり、重症者を優先させるという大義にいつの間にか巧妙に美化されてしまうのである。財政や景気対策、税制の問題でも同じであるが、コロナのような伝染病の実態を正しく直視しないで先送りにすることは、ウイルス拡散の温床を政治自らが作っているのとある意味では同じことである。ところが決断できない、決断しない日本の政治は、物事(ウイルス)そのものではなくて、マスコミなどとも連携しながら、物事の見方や捉え方で、要するに観念で問題をコントロールしようとする悪弊があまりにも根深く浸透してしまっているので、日本全体の存亡、日本人全体の生命に関わるような重大な問題でもそのやり方から離れることは出来なくなってしまっている。最終的にはこの日本の政治の政治性というものが日本を滅ぼすことになってしまうのであろうと深く危惧されるものである。アメリカやヨーロッパに比べれば、日本は現時点ではコロナをうまく抑え込んでいるように一面では見られているのかも知れないが、このままで行けば中国や韓国、そして欧米がピークを越えて終息に向い始めた時点で、日本は遅ればせながらという具合に感染者が爆発的に増え、そこから都市封鎖や非常事態宣言に追い込まれていくというシナリオは、事の性質上、後手に回っている分だけ加速度的な悪化状態が突如として顕在化する必然性があると考えられることから非常に危険度が高いと考えられるものである。中国人の全面的な流入禁止措置も1月末か遅くとも2月中には決定しておかなければならないことであったが、これも日本の政治は決断できないことで先送りにし、その収穫のような現実を全ての日本人はこれからウイルスに怯える日常の中で刈り取って行かなければならないのである。もちろん中国人の流入だけが感染の原因ではなくて、日本からの観光などの海外渡航禁止もヨーロッパやアメリカなどの感染拡大が見られ始めた時点で決定しておくべきであった。全てがそうなのである。どうして日本の政治は物事をタイムリーに決断できないのであろうか。どうして全ての問題を川にゴミを垂れ流すように先送りにするのであろうか。時間の経過と忘却が自然と事態を解決に導いてくれるとでも考えているのであろうか。どうして日本の政治は国民の生命よりも財政収支のことを重視するのか。何で圧倒的多数の日本の大衆は、日本の政治はたとえ腐っていても最低限度の良心は保持しているなどと信じ込んでしまっているのであろうか。今こそ、そういうことの一つ一つを全ての日本人が家に引きこもって良く考えるべきである。そういう意味ではこのコロナ禍は、日本人の意識改革のためのチャンスであり、そのために選び取られた現実であるようにも私には見える。

言えることと言えないことの境界に生きるということ

本当に本当に、日本も大変な事態になってきたな。しかし我々一般人の立場で言えば、月並みな言い方ではあるが、「なるようにしか、ならない」ということであろう。どんなに用心したところで、目に見えるものではないし、居住地域の汚染の度合いが一定以上になれば、うつる時にはうつるのであって、諦めるなどと言えば言葉は悪いかも知れないが、傍観して時が解決してくれることを待つ以外にないのであろう。感染病は火事のようなもので「燃え移る」対象がなくなってしまえば、今、燃やしているものを燃やし尽くして、自然と鎮火するものである。そういう意味では伝染病の「隔離政策」ということは、有効であり絶対に必要なものであろうが、火事と違って厄介なところは、ウイルスは火のように可視的、体感的な炎や熱で一目瞭然のものではないし、また中心から周縁に向かって徐々に勢いを強めていくものではなくて、保菌者の移動によって次にどこが燃え広がるのかを予測することが非常に困難であるということであろう。それゆえに、なるようにしかならないということで、人間は特に密集した都市生活においては、ウイルスの脅威を低下させたり、コントロールすることが不可能なのである。

しかし人類の歴史というものは言ってみれば、ウイルスや細菌と人間の免疫力の壮絶な戦いを何千年、何万年と繰り返してきたものであって、過去にはそういうことによって、一つの文明や民族が滅亡してきたことも無数にあったのであろうが、医学の進歩した20世紀後半から現在の21世紀においては、毎年流行る季節性のインフルエンザなどにおいても世界レベルで見れば何万人も死亡することもあるのであるが、それでもパンデミックになったり、都市封鎖されなければならないような事態にはならないものである。なぜかと言えば、高齢で体力が低下していたり重篤な持病を抱えているような人間でなければ、それこそ日頃の手洗いやマスク程度のことで感染を防ぐことが出来るし、また仮に罹ったとしても、病院で薬を処方してもらったり、点滴を打って自宅で2~3日寝ていれば、免疫力で自然と治ってしまうからである。よってその程度のことで誰も大騒ぎはしないし、保菌者の行動経緯が調査されたり、イベントが中止になるようなことは絶対に在り得ないことだ。何が言いたいのかと言えば、今、この期に及んでも日本ではまだ大袈裟に騒ぎ過ぎだとか、若者であれば8割は軽症で済むのであるから、確定検査を求めずに大人しく家で寝ていればよいなどという意見も多いのであるが、もちろん病院や医療スタッフの現実に対応できる能力、限度の問題があるので、そういう考え方も方便と言うのか、仕方ない面もあるのであろうが、認識の在り方としてどうなのかと私は思う。我々国民は今回のような深刻な危機に瀕した時には、その時々の社会の対応能力に応じて、現実そのものではなくて、政治的な現実の見方を受け止めなければならないのであろうか。社会的なパニックを回避するためには、国民は自分たちの健康や生命よりも、社会全体の秩序により価値を認めなければならないのであろうか。そうであるならば、本質的には日本社会は一党独裁共産主義体制である中国と何一つとして変わらないのではないのか。そうは言っても自由主義体制の国家であっても、政治や報道には、言えることと言えないこと、認められることと認められないことの二区分が歴然と存在し、その境界域で微妙にバランス調整を取りながら保たれていることは日本だけでなくアメリカであってもどこの国であっても同じである。ただし構図として同じであってもその程度が全然違うと言うことは言えるであろう。だから我々国民とすれば自分や自分の家族の命を守るためには、政治や報道が言いたくても絶対に言えないことをそれぞれの自己責任と自己判断において汲み取りながら生きていかなければならないということであろう。権力に従順なだけで、素直な馬鹿という人種は淘汰されて滅んでいく運命なのである。それもまた大きな宇宙的な視点で見れば、自然の摂理の一つなのかも知れない。

新型コロナウイルスの正体について

そもそもWHOが新型コロナウイルスの治療法について、エイズエボラ出血熱の二つの感染症の治療薬が有効ではないかと考えて臨床試験を行っていることが、不可解である。どうしてエイズやエボラの治療薬が、新型コロナウイルスに効くと考えたのであろうか。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200221-00000007-asahi-int

もちろん事態は極めて緊急性が高いものであるから、理由などどうでもよく、とにかく利くのであれば何でもよいと言われればそれまでであるが。エボラについては、コウモリを媒介して人にうつる性質があるので、まだはっきりとはしていないが今回の新型コロナも当初はコウモリが自然宿主とされたことから類似性はあるが、エボラは空気感染はしないで接触で人から人へと感染していくとのことなので、その点で考えれば別種の遺伝子構造を有していると考えられ、エボラの治療薬が新型コロナに効果があるとは考え難いものである。一方でエイズウイルスも空気感染はしないで、性行為による感染、血液感染、母子感染の3パターンであり、また自然宿主も鳥類などではなく猿であるとされていることから、遺伝子構造は新型コロナとはエボラ以上に別物であるはずである。要するに抗HIV薬が新型コロナの治療薬になる可能性は、元々のウイルスの性質や治療の機序から考えれば有り得ないはずなのである。ところが今月の初めに、タイ保健省が抗HIV薬に抗インフルエンザ薬を組み合わせると、新型コロナ感染者に対して効果があったことを報告している。その報告を受けて臨床試験を実施しているのであろうが、何が言いたいのかと言えば、ウイルスも自然界における生き残り戦略の中で遺伝子の型を少しずつ進化させていくものであるが、数年という短期間で、全く遺伝子構造の異なるウイルスに突然変化したり、遠い類型のウイルスの特徴をそれまでの一つの型の中に共存させることは有り得ないということだ。

1月末にインドの研究者たちが「新型コロナウイルスエイズウイルスと不自然な類似点がある」「このウイルスが自然発生することは考えられない」と論文で発表し、その後、猛烈なバッシングによりその論文はのちに撤回されたということであるが、今、治療薬に抗HIV薬を用いようと試験されていることから考えても、インドの研究者たちは論文で真実を報告していたとしか考えられないものである。

https://www.news-postseven.com/archives/20200220_1543298.html

またそこから「新型コロナウイルスは、SARSウイルスとエイズウイルスを武漢ウイルス研究所が人工的に合成したものでは」という憶測が飛び交ったということであるが、それは当然の疑惑であり、また真実の可能性が高いと見做される。エイズウイルスは言うまでもなく、人の免疫細胞に感染して破壊するものであるが、コロナウイルスを改変して生物兵器として強力な有毒性を持たせるためには、エイズウイルスを人工的に組み合わせたハイブリッドを遺伝子工学的に作り出す必要性があったのではないかと私は見ている。新型コロナウイルスの感染者の症状を見ても、重症化している人はエイズ由来の作用によって免疫機能が低下していることが原因なのではなかろうか。またそうであれば、元々の免疫能力が低下している50歳以上の年齢層に発症者や重症患者が多いことの説明もつくのではないのか。WHOだけでなく日本国内でも抗HIV薬が使えないか研究が始まっているということである。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200222-00000009-asahi-soci

それは恐らくは、新型コロナウイルスの症状からエイズウイルス由来の特性を消滅させて症状を軽症化させようとする試みであり、またこの不自然なウイルスの正体を示しているものでもある。

ウイルスと政治の生存戦略

気候的には春は確実に近づいてきているのだが、日に日に、じわじわと日本もえらいことになってきたな。この先、どうなってしまうねやろと不安で眠れないという程ではなく、毎日、熟睡しているがそれでもやはり起きている日中は心配である。個人的には別にさほど楽しみにしてる訳でもないのでどうでもよいのだが、もうオリンピックの東京開催は無理やろ。ロンドンでやってもらえばよいではないか。今後の経過にもよるが、そう簡単に今のコロナウイルスの拡散が終息するとは考えられない。このような状況でオリンピックという大イベントを強行することは、それこそ狂気の沙汰であるということぐらいは、さすがに日頃から梅毒か何かで脳の細胞をやられてしまっているような日本の政治家たちにも判断が付くことであろう。というよりも日本の判断以前に、世界やIOCが許さないであろう。東京開催が、コロナウイルスを東京に集中させて世界中に拡散させる集積中継の場になることは避けられないであろうから、これはテロよりも恐ろしい危険性である。そういう意味では本当は東京ではなくロンドンでやっても危険度の大きさは違うであろうが、同じことである。感染者の多い中国や韓国、日本を不参加にするというのであれば話しは別であるが、そうもいかないであろうから、今年はオリンピックを中止するか、来年に先送りにすべきではなかろうか。もちろん今後、1~2カ月の間に「奇跡的」にウイルスの拡散、発症が消滅していくことになるのであれば、予定通り東京開催を実施すればよいであろうが、果たしてその可能性はどれほどあるであろうか。その判断の分岐点は、今回のコロナウイルスが一体、本当に自然発生のものであるのか、それとも何の根拠もない陰謀論やデマとして権威筋に一蹴されているが、人為的に作られた生物兵器としての超強力なウイルスが何らかの事故により漏出したものによるのかのどちらかに尽きるであろう。それ以外の判断材料となるべきものは何もないし、また何を追求しようと、何に言及しようと無意味である。私は後者であると考える。ウイルスそのものが爆発物などよりも遥かに恐ろしく危険極まりないテロのようなものだと見ている。もちろんそうは言っても、私は何もそれを政治問題として表面化させ、日本の政治やマスコミに中国へ今回の問題の真相と、その責任を厳しく追及をしろなどと言うつもりはない。また日本のような国が、単独で中国にそのような強行な態度を取れる訳がないことくらいは、日本人であればどんな馬鹿でもいやというほどにわかっているはずである。そういう問題ではないのだ。純粋に危機管理の問題なのだ。日本の平和主義とか平和外交という理念は、崇高なものであるし無下に否定されるべきではないであろう。それは分かる。しかし日本の政治やマスコミそのものが、平和主義や平和外交の方針を堅持するために、国民の生命や健康を犠牲にしてまでも、目の前の現実を捻じ曲げたり、政治そのものが都合の悪い真実に対峙することを放棄するのであれば、一体、日本が掲げる「平和」というものにどれほどの価値があると言うのであろうか。むしろその日本的な平和の外観のために究極的には、いや現実に国民の生命までもが犠牲にならなければならないのであれば、戦時中の国家総動員法による挙国一致体制の単なる国家主義的な裏返しで、本質的には何も変わっていないのではないのか。

数日前に見たNHKの報道番組では、今回のコロナウイルス厚労省は「ウイルス性の風邪」だと見做しているということである。たかだか風邪のためにオリンピックの開催までもが危ぶまれているということである。また風邪だと言う割には、日本国内で感染の疑いがある人を検査する非公表の病院で、医師が診断する際の衣服が映されていたが、まるで宇宙服のような恰好である。今から月旅行にでも行くつもりですか、と言いたくなるような厳重防護の診療衣で、あれではこれから気温が上がっていくと、体力的に一日に何人も診るのは不可能なのではないかと他人事ながら心配になったほどであった。そもそも医者は、その辺の町医者でもそうだが、一日に何十人も風邪に掛かった人間を診療しているが、普段はマスクすらしていない。しかし医者は患者の風邪がうつって休診になったなどということを聞いたことがない。医者だから人よりも免疫力が高いとか、風邪に掛かり難い体質などということはないであろうが、日常的な光景とすれば本来はそういうものなのである。いかに日本の政治や行政が、国民の正しい理解と認識を無視している対応をしているのかわかるのではなかろうか。今回のコロナウイルスが自然発生のものであるのか、人工的に作られた生物兵器であるのかの判断について、以下のウイルス研究の国際的第一人者である「大御所」の見解を熟読してもらえれば良いと思われる。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200214-00070375-gendaibiz-sctch&p=1

この研究者の意見に私は間違いはないと思う。但し、それはあくまでも自然発生のコロナウイルスであればの話しである。自然に現れてきたものであるのなら、過剰に恐れたり、大騒ぎするものでは本来は有り得ないのである。しかし現実には、そうではないからこそ、逆説的に一体どういうことなのかということに少なくとも政治家や医療行政に携わる人間の頭の中身はならなければならない。自民党の政治家や官僚が深刻な現実を無視しているからこそ、全中国人の日本への入国を禁止する措置は未だに取らないで、当初、中国に大騒ぎにならないようにして欲しいて要請があったことに配慮したり、忖度する姿勢を保ち続けているものである。また4月の習近平氏の来日も予定通り実施することに固執している。政治が現実を捻じ曲げる歪みが、国民の犠牲を作り出しているのである。その構図を国民は理解すべきだ。ウイルス感染症の大御所のご指摘では、コロナウイルスが健康な細胞の受容体(レセプター)にとりつくための、外側のトゲ(スパイクタンパク質)は、脆弱で壊れやすいものであるということである。空気中ではすぐにそのトゲが脱げてしまって死滅してしまうものであるらしい。また家庭用の石鹸や洗剤などの1%の界面活性剤を噴霧するだけでも殺せるということである。本来の性質はそうなのであろうと思う。しかしその本来のコロナウイルスの性質が、今の事態を正しく説明できるであろうか。我々が見せられているものは驚異的な感染力で宇宙服のような恰好をしていて、慎重に用心深く除菌もしているであろう検疫官や救急隊員が感染を防ぐことが出来ていないのである。現実に1千万都市である武漢が封鎖されていて、その内部では実際には何人死んでいるのかわからないのである。大御所の見解では、4月、5月にさらに感染が広がるおそれがあるとTVで発言されているのを聞いて唖然としたということである。なぜならコロナウイルスは気温が上がると生きていけないから、2月末から3月に入れば自然に終息するはずであると予測している。それで、もうそろそろ2月の末を迎えようとしている。終息の兆しは見え始めているであろうか。さて我々が今直面しているウイルスの正体は一体何なのであろうか。私は何も大衆にデマを喧伝しようとしているのではない。政治家やマスコミの脳細胞に侵入しようと企んでいるだけである。

マスコミこそが有毒なウイルスではないのか

もう永久に記事を投稿するのは止めようと考えていたが、今、日本はかつて経験したことがなかったほどの深刻な危機の瀬戸際に直面しているように思われるので、沈黙してはいられない。私が何か発言したところで、事態の何がどうなるものでもないが。危機とは言うまでもなく中国発コロナウイルスの拡散についてである。大局的に見て、現時点における日本のこの問題の捉え方は、大きく2通りに大別されると思われる。一つは楽観的な見解である。必要以上に大騒ぎする必要はない。毎冬、流行するインフルエンザ程度のことでその内に桜が咲くころまでには、自然と終息していくであろう。むしろ病原菌よりもデマや風評被害の問題の方が大きいとする見方である。もう一方は、悲観的というか、私に言わせればより現実的な危機管理に立脚した見方であるが、今後1~2カ月の間に、爆発的に日本国内の市中感染が増加し、収拾がつかなくなり、東京や愛知などの大都市が中国の武漢のように封鎖される事態となる可能性が小さくはないとする見解である。仮にそうなれば日本は破滅的なパンデミックを経験することになるであろう。それで日本の政府がどういう風に見ているのか、楽観的なのか悲観的なのかと言えば、いつものことながら情報統制を敷いていると思われるので、その2つが混在していてわかり難いという以上に無責任的である。ただ一つ確かなことは、豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号に対する日本政府の対処方法を見ても、このコロナウイルスを単なる季節性のインフルエンザのように見做していないことは明らかである。特殊で特異な病原菌であると尋常でない警戒心を抱いていることが見て取れる。それは日本だけではなくてアメリカやその他の国においても同様である。しかしその一方でこの新型ウイルスの特性について、ほとんど何もわかっていないので、正しく効果的に対処されているとは言えない。水際対策などとウイルスを国内に侵入させないことだけに神経を集中させ、潜伏期間の2週間を目途にしてから乗船者を区分けして事態の収拾を目論んできたようであるが、これまでの経過を見る限り、このウイルスは潜伏期間中に感染し密室の客船が感染者を増加させる空間となってきたものである。もう一つは異常とも言える感染力の強さで、客船の感染者を搬送した消防局の職員や事務作業の検疫職員などが、厳重に防護措置をしているはずであるのに感染している。よくはわからないが、1~2メートルの至近距離内にいる相手や接触者には、防護服や、手洗い、殺菌などに関わらず感染する力がきわめて強い特性を持っているように思われる。果たしてこのウイルスの正体は何なのであろうか。そもそも季節性のインフルエンザに類するような毎年、型を変えながら発生するウイルスが一つの大都市を封鎖させるほどの威力を持っているとは考えられない。武漢は人口1千万人以上の近代都市である。生ものの蛇や蝙蝠を日常的に食する習慣があるとは考えられない。武漢では連日、100人以上の死者が発生していることが伝えられているが、実際の感染者数や死者数は中国政府の公式発表の10倍とも100倍とも言われている。公式発表の数値は病院に収容されて、現在入院中であったり死亡した人間をカウントしているだけであろう。武漢では感染がわかっても公共の交通機関がストップしていて病院まで辿りつけなかったり、医者に診てもらっても特別なコネがなければ家に戻されるだけで入院させてもらえなかったり、突貫工事で建設された劣悪な環境の強制収容所のような施設で隔離されるだけであるという。ところが日本の報道は、政治の規制がかかっているのかマスコミが自主的に規制しているのか知らないが、そのような現地の悲惨な実態をほとんど伝えてはいない。していることと言えば、真実を追及する声をデマや有害な陰謀論としてウイルスのように世論から隔離、払拭させようとしているだけのことである。有害なウイルスはどちらであろうか。報道機関の方ではないのか。TVニュースを見ているとデマや陰謀論についてキャスターが、「そのような事実はない」などと強い調子で断定しているが、一体何を根拠に自信を持ってそう言い切れるのか。武漢に最強クラスのBSL-4の病原菌を扱うウイルス研究所が、中国に唯一存在することは事実である。中国の杜撰な管理体制や隠蔽体質を考えれば、その研究所から人工的なウイルスが漏えいしたと考えることの方が、より自然で人間的であると言えるのではないのか。大体、自然発生のウイルスであれば、街中で突然、人間がばたばたと倒れるような症状にはならないはずである。政治やマスコミには中国への忖度や、中国からの圧力があるのであろうが、正当な疑惑は必要なのであって、その疑惑を有害視することの方がよほど絶対的な社会悪である。またそのような社会悪から、お花見感覚のような、桜が咲くころまでにはコロナウイルスは終息するであろうというような平和ボケの楽観論が流布されているように思えてならない。東京が武漢のように都市封鎖される事態になればどうなるのであろうか。日本はもう終わりである。因みに調べたところ、武漢市の人口は1,089万人で人口密度は1,217人/k㎡であるのに対して、東京都は人口1,395万人に対して人口密度は6,359人/k㎡である。東京は武漢の5倍以上の過密度があるということだ。今、国内の感染者数は数十人でまだ経路の調査が可能な範囲内であるが、今後その数が10倍、百倍となっていくとほとんど放置というかお手上げ状態になることは目に見えていることではないか。東京が、或いは東京だけでなく大阪や他の都市もそうであるが、武漢のようにはならないと誰がどのような理由で断言できるのであろうか。もちろんそうならない方がいいに決まっている。しかしそのためにこそ正当で正常な危機感と危機管理意識が必要とされているのではないのか。今の日本にはそれがないことが、もうすでに潜在的に近未来を折り込んでいるような気がしてならない。

政治の不正を論理的に追及せよ

そもそも強姦罪というものは、2017年に刑法が改正されるまでは「親告罪」であった。強姦における親告罪の意味は、性行為は通常は密室で密やかに行われるものであり、その行為において仮に身体的な怪我や精神的な苦痛があったとしても、第三者的に外形的に見て、そこに合意があったかどうか、犯罪に相当するかどうかは、当人の告訴や告発がなければ判断がつかない性質のものであるからだ。よって反対に言えば、その他の犯罪に比べて、強姦罪は客観的な物証や状況証拠よりも被害者の証言そのものが、警察の取り調べや司法においては信用性が高くて、重要な証拠として認められる割合が極めて高いということであり、それはこの犯罪の性質上、やむを得ないことだと考えられる。もちろんそうは言っても例外はある。たとえば被害を訴える女性が、覚せい剤などの麻薬を使用していて錯乱状態であったり、経歴的に万引きの常習犯で虚言癖があったり、それまでに自殺未遂を何度も繰り返していて精神的に不安定な状態であるようなケースでは、いくら本人が告発して訴えても、そういう人間の主張に全面的な信用価値を認めていたのでは、世の中が滅茶苦茶になってしまうであろう。よってそこは警察や検察の判断ということになるであろうが、結果的に不起訴処分になるパターンが多いのだと想像される。但し問題は、女性が麻薬常用者でもアルコール中毒でも虚言癖のある人間でもなくて、健全で明晰な意思判断能力を有している場合であっても、前回の記事で述べた通りに、性被害を訴える女性が、嘘をつくことが絶対に有り得ないということにはならない。非常にレアなケースであろうが、悪意でもって相手の男性を破滅させようと企んだり、何らかの恨みを晴らそうとしたり、示談金を出させようとするようなケースは可能性とすれば存在する。これは稀なケースであっても絶対に在り得ないということはないのであって、男性側からすればこのパターンに嵌り込んでしまえば、絶体絶命の窮地となる。いわゆる冤罪の落とし穴に嵌ってしまって、男性が無実を証明することが非常に困難となる。なぜなら通常であれば、親告罪としての性質上、或いは刑法が改正されて親告罪で亡くなった現在においても、明らかに女性の証言に信用性が著しく欠落していることが明白でない限りにおいては、レイプが告発されて警察に被害届が一旦受理されれば、性犯罪の厳罰化と言う流れにおいて、容疑者の男性が特定されている場合は例外なく逮捕、拘束され、拘留期間が2週間か3週間か、私は逮捕されたことがないので知らないが、女性の証言内容に沿った厳しい取り調べが行われ、男性が女性の証言通りに強姦を行っているのであれば、嘘を貫き通すことはほぼ不可能であろうし、仮に否認し続けても起訴されて、裁判になれば100%に近い確率で有罪になる。男性が無実である場合は、よほどの幸運に恵まれて女性の証言に重大な矛盾や意図的な嘘が露見した場合は、不起訴になるケースもないことはないのであろうが、通常は一旦逮捕されてしまえば、被害者女性の証言が絶対的に正しくて、嘘はないものとして受け止められ、多少の矛盾や祖語は性被害を被った女性の精神的なショックとして解釈されることであろう。ここにおいては、いわゆる自白偏重の取り調べ方法が冤罪を生む温床になっているという社会問題が提起されるべきであろうが、今回の伊藤詩織さんの問題は、その時点で容疑者であった山口氏が本来は逮捕されるべきであり、また逮捕状が裁判所から出されていたにも関わらず、なぜか急遽、逮捕の執行が直前に回避されたということである。刑事事件において、山口氏は同様のケースにおいては一般人であれば避けられない逮捕、拘留の取り調べにおいて、自らの無実、無罪を警察に証明した訳ではないのである。強引な自白偏重の取り調べが正しいのかどうかという問題は確かにあるし、それは無視してはいけないことであるが、そもそも逮捕して本格的な取り調べもしないで、山口氏が不起訴に相当するかどうかの判断がつく訳がないであろう。私のような素人が考えても明らかであるが、山口氏の場合は通常の取り調べをした上で、嫌疑不十分で不起訴になったのではない。逮捕が中止されたことが不起訴処分とセットになっているとでも言うか、不起訴にする目的で逮捕の中止命令が下されたものである。伊藤詩織さんのケースは厳密に言えば、強姦罪ではなくて準強姦罪であるが、その部分に焦点をあてて政治介入から目を逸らせようとするかの弁護士等の解説なども見受けられるが、まったくのナンセンスである。伊藤詩織さんが山口氏の主張通りに、仮に酒に酔っていて酩酊状態にあったとしても、伊藤さんは麻薬常用者でもなければ、アルコール中毒者でもないので、伊藤さんの証言の信用性が著しく欠落していると警察や検察が判断する訳がないのであって、親告罪としての性質上、いや親告罪でなくなった現在でも性犯罪の厳罰化の方向性においては、山口氏の逮捕が直前に見送られなければならない理由など何一つないはずである。まだこれが山口氏が逮捕されて、拘留期限目一杯の通常通りの取り調べが行われた上で不起訴にされたのであれば、そこに忖度や特別扱いがあったとしても、一応の手順を踏んでいる訳だから、筋が通っているというかその裁量に文句を付けることは難しいと思うが、逮捕が中止されたということの異常性については国民においてきちんとした説明責任が果たされなければならないことは当然である。しかしそれを山口氏に問うても何の意味もない。山口氏の立場上、刑事においては不起訴になっているのだから、政治家や官僚にお願いしましたなどと言える筋合いのものではないだろうし、仮にお願いして便宜を計ってもらっていたとしても、その依頼自体は恐らくは違法行為には該当しないであろう。これは本来は国会で追及されるべき問題なのである。国会はそのためにあるのではないのか。報道もそのためにあるのではないのか。要するに日本には、本当の意味での政治も報道も未だ存在しないということである。全ては体裁よく取り繕われた馴れ合いなのだ。日本の馴れ合い体質が、安倍総理のお友達政治を生み出しているのだから、司法にも報道にも責任はあるということだ。