龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

言えることと言えないことの境界に生きるということ

本当に本当に、日本も大変な事態になってきたな。しかし我々一般人の立場で言えば、月並みな言い方ではあるが、「なるようにしか、ならない」ということであろう。どんなに用心したところで、目に見えるものではないし、居住地域の汚染の度合いが一定以上になれば、うつる時にはうつるのであって、諦めるなどと言えば言葉は悪いかも知れないが、傍観して時が解決してくれることを待つ以外にないのであろう。感染病は火事のようなもので「燃え移る」対象がなくなってしまえば、今、燃やしているものを燃やし尽くして、自然と鎮火するものである。そういう意味では伝染病の「隔離政策」ということは、有効であり絶対に必要なものであろうが、火事と違って厄介なところは、ウイルスは火のように可視的、体感的な炎や熱で一目瞭然のものではないし、また中心から周縁に向かって徐々に勢いを強めていくものではなくて、保菌者の移動によって次にどこが燃え広がるのかを予測することが非常に困難であるということであろう。それゆえに、なるようにしかならないということで、人間は特に密集した都市生活においては、ウイルスの脅威を低下させたり、コントロールすることが不可能なのである。

しかし人類の歴史というものは言ってみれば、ウイルスや細菌と人間の免疫力の壮絶な戦いを何千年、何万年と繰り返してきたものであって、過去にはそういうことによって、一つの文明や民族が滅亡してきたことも無数にあったのであろうが、医学の進歩した20世紀後半から現在の21世紀においては、毎年流行る季節性のインフルエンザなどにおいても世界レベルで見れば何万人も死亡することもあるのであるが、それでもパンデミックになったり、都市封鎖されなければならないような事態にはならないものである。なぜかと言えば、高齢で体力が低下していたり重篤な持病を抱えているような人間でなければ、それこそ日頃の手洗いやマスク程度のことで感染を防ぐことが出来るし、また仮に罹ったとしても、病院で薬を処方してもらったり、点滴を打って自宅で2~3日寝ていれば、免疫力で自然と治ってしまうからである。よってその程度のことで誰も大騒ぎはしないし、保菌者の行動経緯が調査されたり、イベントが中止になるようなことは絶対に在り得ないことだ。何が言いたいのかと言えば、今、この期に及んでも日本ではまだ大袈裟に騒ぎ過ぎだとか、若者であれば8割は軽症で済むのであるから、確定検査を求めずに大人しく家で寝ていればよいなどという意見も多いのであるが、もちろん病院や医療スタッフの現実に対応できる能力、限度の問題があるので、そういう考え方も方便と言うのか、仕方ない面もあるのであろうが、認識の在り方としてどうなのかと私は思う。我々国民は今回のような深刻な危機に瀕した時には、その時々の社会の対応能力に応じて、現実そのものではなくて、政治的な現実の見方を受け止めなければならないのであろうか。社会的なパニックを回避するためには、国民は自分たちの健康や生命よりも、社会全体の秩序により価値を認めなければならないのであろうか。そうであるならば、本質的には日本社会は一党独裁共産主義体制である中国と何一つとして変わらないのではないのか。そうは言っても自由主義体制の国家であっても、政治や報道には、言えることと言えないこと、認められることと認められないことの二区分が歴然と存在し、その境界域で微妙にバランス調整を取りながら保たれていることは日本だけでなくアメリカであってもどこの国であっても同じである。ただし構図として同じであってもその程度が全然違うと言うことは言えるであろう。だから我々国民とすれば自分や自分の家族の命を守るためには、政治や報道が言いたくても絶対に言えないことをそれぞれの自己責任と自己判断において汲み取りながら生きていかなければならないということであろう。権力に従順なだけで、素直な馬鹿という人種は淘汰されて滅んでいく運命なのである。それもまた大きな宇宙的な視点で見れば、自然の摂理の一つなのかも知れない。