龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

伊藤詩織さんの判決について思うこと

性被害は確かに当事者間で微妙な問題や、双方の主張の食い違いを含んでいるものであろうが、それでも女性の側が毅然として、私は性被害を受けた、レイプされたと訴える態度そのものには、それなりの説得力や信用性があると見做されることは当然だと考えられる。女性が相手側の男性を悪意で、性被害の事実をでっち上げて社会的な信用を失墜させようと企んだり、個人的な恨みを晴らそうとしたり、示談金を得ようとするケースも全くないとは言えないであろうが、それはかなり例外的なケースである。訴える側も、訴訟で争うとなれば敗訴する可能性もある訳であるし、弁護費用や時間や精神的な負担を考えると、決して割が合うゲームとは言えないからだ。よって訴えられた男性側は、冤罪を証明するためには、女性がなぜ嘘をついてまで自分を加害者に仕立て上げようとするのかについて、踏み込んで説明し、裁判官を納得させることが出来なければならない。たとえ刑事事件で不起訴になっているからと言って、それで嫌疑が完全に晴れているとは言えないからだ。

以前から気にはなっていたが、伊藤詩織さんの民事訴訟第一審で元TBS記者の山口敬之氏に勝訴したことは、当然の結果であるとは思う。しかしこの事案について、個人的に思う所は色々とある。先ず第一にネット上における情報の一人歩きということだ。確かに伊藤さんは、山口氏に就職の相談をするためとは言え、二人だけで食事をし、二件の店で酒を飲むという行為は、軽率だと謗られても仕方のないものだとは思う。女性であれば、たとえ世界中を飛び回るような行動力のあるジャーナリストであったとしても、相手の男性の下心のようなものを敏感に読み取って、危機管理をする用心は必要であろう。しかしその注意がなかったとしても、性行為の合意を相手に誤解させるものとまでは言えないであろうし、ましてやハニートラップであったかのようにネット上で中傷や噂がなされることは、どう考えても飛躍が大き過ぎるものである。第二に、これも第一の問題と関連して、情報の正しい読み取り方や考え方についてであるが、枝葉末節と本当に疑惑の目を向けなければならないことが、混同してしまってそこから派生するように、伊藤さんに対する人格的な批判のようなものが発生していたことではなかろうか。具体的に言えば、レイプされたとされる翌日に伊藤さんは山口氏に、昨日は有難うございましたというような内容のお礼のメールを送ったということである。それからしばらくは、二人の間で就職に関する話し合いがなされたという情報があるが、たとえそれが事実であったとしても、何らかの重大なトラブルや被害に陥った人間は、第三者から見れば、その部分のみを抜き出して見れば、不自然で不可解としか考えられないような言動を取りがちなものだと考えられる。その部分だけに焦点を合わせて、伊藤さんが嘘をついていたり、人格的に信用ならないと決めつけることも私はネット空間に発生しがちな情報の一人歩きだと考えるものである。

それではそのような事の本筋から外れた枝葉末節や推測の飛躍ではなくて、我々がこの事案において本当に問題視しなければならなかったことは何だったのかということである。それは今更、言うまでもないことであろうが、刑事捜査において一旦、裁判所で山口氏に対する逮捕状が発行されていながら、逮捕直前になってその執行が中止されたことであろう。そしてその流れにおいて、不起訴処分になったことである。そしてその背後における政治的な疑惑について、一部の週刊誌の追及はあったものの、その他のマスコミは一貫して沈黙し続け、無視する態度であったということである。ほとんどのマスコミは、桜を見る会などのどうでもいいような問題は喜んで自民党安倍総理の責任を糾弾するのに、政治とマスコミの関係になるとまったく取り上げようとはしない。これは、基調の論調としてフェミニズムの色彩の強い朝日新聞などでも全く同様である。朝日新聞フェミニズムの記事を寄稿したり、共鳴しているような社会学者は一体、何を考えているのであろうか。そのような人々に本当の社会的な正義感というものが存在するのであろうか、私には甚だ疑問である。今回の民事の判決においても、弁護士が刑事事件における立証のハードルの高さを指摘しているコメントなどが見受けられるが、弁護士の立場とすればそれが無難な見方になるのかも知れないが、そういう問題ではないであろう。これが山口氏でなくてマスコミとは何の関係もなく、時の総理大臣の知人でもない一般男性が、同様の経緯になるのであればそういう見解になるのであろうが、到底そうは思えないものである。一般の男性に対しては、逮捕執行が直前で回避されることは有り得ないし、一旦、逮捕されれば女性側の主張に沿って徹底した取り調べが行われるはずである。安倍総理は確かにメディアが指摘するように、非常に「お友達志向」の強い権力の使い方をしていると見られる。しかしその恩恵を実はマスコミ自体も受益していることをこの問題なり、訴訟は示しているのではないのか。日本の民主主義の進歩や成熟を妨げている原因は、政治と報道の癒着にこそあるのではないのかということである。ネットにおける情報の一人歩きも問題ではあるが、それ以上に全ての国民に対して真に重大な認識から目を逸らせようとする誘導の方が深刻であることは明らかだ。伊藤さんに対しては、この性被害と訴訟では、大変の苦労をしたことと思うし、深い同情しか感じないものである。但しそういう前提の上で言わせてもらえれば、伊藤さんの発言に対しても正直に言って、ちょっと私には引っかかるところがあるし、そういう所が誤解を生む原因になっているのかと思えるところがある。例えば今回の勝訴の判決を受けて、山口氏に対するコメントとして、「私たちのケースだけではなくて、どういった構造でこれが行われてしまったのかというところに彼自身も向き合って、解決の策を一緒に探ってくれるようになったら私は嬉しいなと思っています。」などと言っている。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191218-00010010-abema-soci

どういう構造とか、一緒に探るなどと、それは原告が被告に向けて使うべき言葉ではないであろう。ジャーナリストとしてそういう言い方が、立派であると考えているのかも知れないが、それは私から見れば、ジャーナリスト以前に一社会人として言葉の選択が間違っていると思う。勝者としての社交辞令か何か知らないが、一緒に探るのが嬉しいのであれば、性行為も同意であったのではないかという見方が成り立つのではないのか。そういう部分に伊藤さんの不用心さがあるようにも私には見える。