龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

新しい時代を拓くための日本人にとっての自己主張

毎週、日曜日の午前中は私が住んでいる実家のすぐ近くでマンションを借りて、一人暮らしをしている息子の部屋に行って一週間の生活報告をさせている。息子は今年の春に大学生になって今19歳である。生活報告とは大学での講義の履修内容や受講状況、サークル活動にどの程度参加しているかとか、ダイニングバーでのバイトに週に何回入って、その月のアルバイト収入は幾らぐらいになりそうかなどである。その上で食費や必要な物を買うのに必要な金を手渡したり、清算したりしている。息子のマンションの家賃は私の銀行口座からの引き落としであるので、生活費といっても大した額ではない。最近の大学は私の時代とは違って随分、便利になっていて、たとえば学生証がキャッシュレスのカードの機能も兼ねていて、昼に大学構内の食堂で食事した分が私の銀行口座から自動引き落としになっている。それで私は息子が何を食べたり買って、幾ら金を使ったのかの履歴をパソコンでチェックすることができる。前期と後期の成績表も保護者宛てに郵送されてくる。私が大学生の時との差があまりに大きくて、私が息子の立場であれば心理的に窮屈で嫌であろうが、親の立場で言えばものすごく安心である。今はそういう時代なのだ。だからなのかどうか、総じて言えば現代の大学生は、基本的にはとても真面目である。こんなことは息子には絶対に言えないことではあるが、私が大学生の時にしていたように授業をさぼって、パチンコや麻雀をしているような学生は、恐らくは一人もいない。親としての正直な感想で言えば、とても有り難い世の中ではある。それで私が毎週、日曜日に息子に簡単な生活報告をさせていることを身の回りの人や何かの機会に初めて会った人などに話すと、大抵はとても驚かれると同時に感心もされる。大学生にもなってよく素直にそういうことに応じているものだということのようである。最近の子供たちは真面目だと言っても、週に一回、親に生活報告をする習慣は希少なケースとして受け止められる。しかし果たしてそれほど珍しがられることなのであろうか。生活報告と言っても、息子も最低限のことを最小の言葉数でしか言わないし、私も踏み込んで根掘り葉掘り聞いたりはしない。それと部屋の状況をざっと見て生活が乱れていないかどうかや、身なりを簡単にチェックする程度である。髪の毛を茶色に染めてるようなので、そのカラーリングに幾らぐらい掛かるのかは聞くがやめろとまでは言わない。一時は本人が言うところの「洒落」で耳にピアスをしていたことがあったので、少し心配になって、ピアスはともかくタツゥーは就職できなくなるから絶対にするなと厳命する。酒は付き合い程度で飲むのはいいが、煙草は吸ってはいけないと言う。そういうことの一々に息子は「わかった」と言って聞き入れ、私の言うことに逆らったり反抗したりはしない。その程度のことである。簡単な生活報告とチェックを10分程度で済ませると、いつも近くの蕎麦屋かどこかに昼飯を食べに連れていく。それを特別な用事がない限り、毎週日曜日に行っている。私はそれはごく当たり前のことで、特別なことをしているつもりはない。でも「普通」の家庭ではそういうことはかなり珍しい光景のようである。普通とか普通でないという意味合いがどういうことかと言えば、私は息子が幼稚園に入るぐらいの頃から元妻とは別居状態であり、毎週土曜日に引き取りに行って私の実家で泊まらせ、日曜の夜に送り届ける生活を続けていた。そして息子が小学校3年生の時に正式に離婚が成立して私が親権を取得して以降も、息子は監護権者である元妻と一緒に同じマンションで住み続けることとなったので、それまで同様に私とは週末だけを一緒に過ごす生活を継続させてきたものであった。そういう環境下で私と息子の関係性は保たれてきているので、息子が大学生になって毎週日曜日に本人の口から生活報告をさせているからと言って、私からすれば息子が幼稚園の頃からしてきたことと変わらないことであり、またそういう昔からの延長上で行ってきている生活の核となる習慣なので、私にとってはこれが普通なのである。別に驚かれたり、感心されるようなことではない。また恐らくは息子もごく普通のこととして受け止めているのだと思う。子供が小さな時から両親と一緒に同居している「普通」の家庭では、大学生にもなった息子や娘が親に一週間をどのように過ごしてきたのかについて報告することは特殊なことなのであろうか。私自身は自分が大学生の時には親に対してそのようなことは一切していなかったし、またそうするように言われたことなど一度もないが、自分が親としての立場の感覚で言えば、仮に同居していたとしても息子に定期的に生活報告させることになると思うので、何が普通で、普通でないかの境界はきわめて不明瞭である。これは子供を信用しているか、いないかの問題ではない。信用も何も子供など親の目の届かない所では、何をしているかわからないし、何をしていても、どうなっていてもおかしくはないものである。またそういう感覚と危機管理の意識が私にはあるから、離婚時に親権者に相応しいと裁判官から認められたのだと勝手に思っている。ともかく毎週、会って生活チェックをしていてもある日、急に髪の毛の色が変わっていたり、ピアスを嵌めたりしているので本当に驚きである。これが息子ではなくて女の子であれば尚更であろう。女の子の急激な変化には、男の私にはとてもではないが対応できない。息子でよかったと思う。そういうことで基本的には息子は、今のところは真面目に素直に育ってはいるが、心配なところはある。それは自分の意見や考えを述べたりなどの自己主張ができないのか、しようとしないことである。たとえば些細なことであるが、息子と何かを食べに行った時に、何が食べたい、どこの店にする、と聞いても大抵の場合は、何でもいいとか任せるなどと言う。自分が欲しい物とかやりたいことというものが、私との会話の中ではまったくといっていいほど出てこない。これは息子が育った特殊というか、一般的とは言えない生活環境と関連があるのかないのか、まあ多少はあるのであろうが、自分の考えや意見を言うのではなくて周りの状況や環境に受け身的に合わせようとするのである。だから不平や文句もない代わりに何を考えているのか、何を思っているのか親でもよくわからない。或いはこれは息子だけではなくて、今の若者全体に共通する特徴なのかも知れないし、もっと言えば日本人全体が、当然私も含めてであるが、自己主張が苦手であるということも言えるのであろう。だから必要以上に心配する必要はないのかも知れないが、どうなのだろうか。これは息子の大学が決まってから一人暮らしのマンション探しをしていた時のことである。何軒か実地で見学した中で、案内してくれた賃貸不動産会社の所長が熱心に薦める新築でその当時、建設中であった物件があった。しかしそこは私が住んでいる家からちょっと距離が離れていて、私はすぐに様子を見に行けるような目と鼻の先にある場所で探していたことと、場所柄があまり良くなかったのでそこは契約したくないという考えをそれとなく伝えているのに、所長は「男だから大丈夫ですよ」などと言って、息子に意見を聞いたのであった。そうしたところ息子は自分が住む所であるのに、その所長に対して何と言ったかと言えば、一言「お任せします」と答えたのである。さすがにその答えには所長もそれ以上強引に薦めることも出来ずに黙ってしまったのであった。結局、その数日後に、夏ごろから私が一人でその不動産会社を通じて目を付けていた家からすぐ近くのマンションがあって、一足先に契約されて埋まってしまっていたのが運よくキャンセルが入ったという連絡がその所長から電話連絡があって、さっそく押さえてもらい契約に至ったのである。今、息子が住んでいるマンションとはそれである。そのマンションは私の中学時代の同級生の親がオーナーをしている物件で、家賃も安く、管理や防音もしっかりとしていて非常にラッキーであったが、奇跡的にキャンセルが入ったということが、何かしら人が住んだりするようなことには縁の力が働くということを強く感じたものであった。住まいの縁はともかくも自分が住む所を斡旋している人間にお任せしてはいけない。息子の立場で考えれば、社会経験もないし、家賃も父親が負担するのだからそういう微妙な板挟みの場面で、思わず「お任せします」などという言葉が出てくることもわからないではない。しかしそこはやはり自分の好みであるとか、希望をはっきりと伝えなければならない。それが認められるかどうかは別問題である。私はこれまで息子に生きていく上で必要な力であるとか知恵を徐々に教えていかなければならないとは考えていたが、社会経験がない学生の間は何を言っても心に響かないであろうし、頭にも残らないであろうと簡単な生活調査の程度で済ませているものである。しかし社会人ではないにせよアルバイトはしている訳であるし、そのようなことを今から少しずつでも伝えていかなければならないと考えが変わり始めている次第である。ということで今回のテーマは「自己主張」である。自分がある瞬間に、何を望んでいるのか、どちらを選びたいのか、どうしたいのかをはっきりと言葉にして伝えるということはそう簡単なことではない。簡単でないという以上にその決定は、自分が自分自身と向き合って、日頃の自分の考えや指向性を理解し、それを様々な外部条件や制約の中で適合させていく自己認識、自己表現の作業だから、もちろん時々の情報量や制約の度合いの問題もあるが、できる人間にはいつもできることであり、できない人間には常に荷が重いことだと考えられる。人間にとって最大の謎は他者ではなくて、自分自身である。簡単に言ってしまえば、自分の願望や情動、性格なども含めて自分自身のことをよくわかっている人間は強いのである。強いだけでなく、効率的な生き方をする。何で効率的かと言えば、そういうタイプの人間は、自分に向かない場所に行ったり、人と無理をして付き合ったり、仕事や趣味を選んだりはしないからである。回り道をしないで本能的に最短距離で自分に向いていることや、やりたいことを選別する能力や嗅覚を持っているように見える。そういうことは当然持って生まれた性格や才能によるところも大きいのであろうが、それだけではなくて日々の訓練によって養われる側面も小さくはないと思われる。訓練とは日常生活の中で自分の考えをはっきりと自己主張する習慣だと考えられる。アメリカ人などの欧米人は、最初にイエスかノーをはっきりと宣言してその後で、自分の考えを述べるという習慣を小さな頃から延々としているのであって、それは生来的なものや遺伝子の問題ではなくて、言ってみれば筋トレのように後天的に得られた能力だと言えよう。国籍や人種に関わらず、誰だって何ごとかを主張しなければ、自分が何者なのかということはわからないのである。私は外国に住んだことがないのでよくはわからないが、欧米の国では自分が食べたり、身に付けたり、住むことなどの意志決定の場面で、たとえ小さな子供であろうとも、他者にお任せしますというようなニュアンスの話法自体が存在しないのではないかという気がする。そういう私自身も偉そうなことばかり言っているが、これまでの人生の大半を、本当の自分自身や自分らしさというものを主張して日常生活や人との付き合いの中で上手く活用させることが非常に苦手で、遠回りや迷ってばかりの時間の中で過ごしてきたように思う。本当の自分らしさや自分の考えを表面化させることは生きていく上でのリスクでしかないという判断に恐らくは縛られていたのであろう。そのような私がこれまで何とか生きてこれた理由は、至って単純なことで日本ではそれが多数派だからである。政治で言えば、与党の自民党みたいなものである。少数の人間は言わば強者として、自分らしさの主張を無理なく自然と行いながら、他者や回りの環境と上手くコミュニケーションを取って、自分らしく生きることができる。それはある種の天賦の才能のようなものであろう。しかしほとんどの人間は多数派の弱者として、自分らしさや自己主張とは無関係に周りの環境や声に埋没して生きていくことを余儀なくされている。それは才能や個性が元々ないことも一因なのであろうが、小さな時からそのような訓練がなされていないということも要因として大きいと私は思う。そしてそれがこれまでの日本だったのである。多数の人間は組織や地域の中での協調性を重視して、自己主張は極力、控えるようにする生き方が無難であった。その日本人にとっての生存環境が今や急激に変化しつつある。そのことについて話す前に、いきなり形而上的で突飛な話しに飛躍するが、信じる、信じないは別にして、一般的に自己主張が強いと言われているアメリカ人などでも「宇宙人の魂」を持っている人間は、上手く自己アピールができずに終生、疎外感や孤独に苦しめながら生きることになるという。私にはその辺りの心理的、精神的な特性というものがよく理解できるように感じる。息子を見ていて思うことは、私は宇宙人であるけれど、息子はどこまでも人間で、尚且つ日本人的で、そういう意味では私などよりもはるかに人間社会に適合して生きていける能力があるように思える。私のように余計で余分な苦悩や焦燥感を今のところはであるが背負っているようには見えない。だから私とは違って幸福な人生を歩める資質はあるのであろう。私が離婚時に必死になって親権の取得を要求し、認められたことも、世間一般の子供に対する愛情ということも当然含まれてはいるが、それ以上に私にとっては子供との結びつきが、この人間世界との唯一の架け橋であったからだということが、その時にはわからなくとも10年以上も経ってから何となく理解できるようになってくる。私がいかに遠回りで標準的な解釈から何光年も距離感のある自己認識の人生を送って来たかということがこれでおわかりいただけるであろう。よって私は現世への適応能力の低さとか居心地の悪さという観点から言えば弱者と言えるのかも知れないが(宇宙人などということを持ち出せば極端過ぎる話だと敬遠されるであろうが)、強者であるとか弱者だとか、多数派であるとか少数派などという区分は世間の常識に照らした表層的で便宜的なものであって、あるレベルで見ればそういう社会的なレッテルというものはほとんど意味がないというか、気にする必要性はないのだと思う。そもそもの話しであるが、人間とは何かと言うことが未だに謎なのである。魂はあるのかないのか、人間の心とは脳内の無数のシナプスを伝わる電気信号に過ぎないのか、数十億年前に海で発生した生命のスープのタンパク質からアメーバのような単細胞生物が生み出されて、それが何の設計図も存在しない適者生存と突然変異だけの果てしない進化の果てに、本当に人間のような複雑な生き物に成り得るのか。もっと最近の時間軸で見てもゴリラやチンパンジーのような類人猿が人間の先祖であるということが有り得るであろうか。宇宙人の魂であろうと何であろうと、人間というものが何なのかについてわからない間は、本当の意味での人間らしさや自分らしさという認識や発見には永遠に辿りつけないような気がする。そのような宇宙的で深遠な生命の追及は科学者でも哲学者でもないのでともかくとして、また根拠のない思い込みは妄想でしかないので、逸れた話しの筋を元に戻せば、要するに私の言いたいこと、危惧することとは、これからの日本は私の世代が生きてきた時代とは違って、自己主張ができなければ生き難いというか隅に追いやられるような世相になっていくのではないかということである。アジア各国から日本にどんどんと労働者が流入し始めてきている。日本国内が否応もなく国際化してきているものである。この動きに日本の政治が規制を掛けることは無理であろう。差別だ何だと騒ぎ立てる人間があまりに多過ぎるし、企業の側も多様で多才な人材を求めるからである。そうなってくると日本国内であるからと言って、日本の慣行が尊重されたり、日本人が主導的な地位である環境はいつまでも続かないと思われる。これまでは特別な才能や存在感のない人間が組織の中で自己主張することはリスク以外の何物でもなかったのが、これからの時代は自己主張できない人間は淘汰されていく時代に変化していくのではなかろうか。同じアジア人でも中国人や韓国人は自己主張が強いし、ベトナム人でもタイ人でも祖国を離れて日本で勉強したり、働きにやってくる人間は優秀でモチベーションも高いから自分の考えややりたい事をはっきりとアピールすることができるであろう。日本国内が日本人ばかりの社会であるならば、一義的に求められる性質は協調性であるとか協調性を土台としたコミュニケーション能力であったであろうが、国内の労働環境が多国籍化してくると自己主張が、生き残っていく上での重要なファクターになっていくように考えられる。もちろん業界や職種にもよるので一概には言えないことであろうが、たとえ日本人ばかりの職場であっても、日本国内の国際化という流れの波及的な影響で、息子のような旧来型日本人的、お任せ志向(思考)の人間は生き難く、収入や地位を得難い世相になっていくのであろうか。まあ公務員なら話しは別であろうし、公務員でなくても何千年も継承されてきた日本人の日本人らしさというものが、そう簡単に消滅するとも思えないので、その辺の見極めは難しいものである。ただしその上で問題提起したいことは、自己主張とはそもそも何なのかということである。今の日本を見ても、政治やマスコミなどでは日々、無数の様々な主張が喧しくも繰り広げられている。「桜を見る会」は怪しからんとか、税金の無駄遣いだとかという話題も一つの主張ではある。しかし同じ主張であっても、主張のための主張と、一人の人間が生きていくための自己主張は根本的に異なるのではなかろうか。日本の言論空間を覆い尽くしている主張のほとんどは、主張のための主張である。その陰で、一人の人間が生きていくための自己主張が封殺されてしまっているのではないのか。左翼であろうと右翼であろうと日本には本当に個の自己主張が存在し得る土壌があるのかということである。エゴイズムであるとかイデオロギーや組織への協調性、多数への付和雷同がごちゃ混ぜになっている光景が日本の言論の基本的な在り方というか、日本人の精神構造として、日本の民主主義として緩やかに管理されているように思える。例えば、朝日新聞には朝日新聞の、産経新聞には産経新聞の社としての統一された主張があるのは当然であって、それはそれでよい。しかし仮に朝日新聞の中の一人の社員が昂然と産経新聞的な主張をしたり、意見をネットなどで公表すればどうなるかということである。反対に産経新聞の社員が朝日新聞的な主張を公にする場合も同じである。もちろん何も無理に組織の体制に反抗する主張をすべきだなどという意味ではないが、中にはそのような人間が一人や二人いてもおかしくはないというか、いるはずなのである。恐らくは首にはならないであろうが、左遷されたり、出世の道が閉ざされることになるであろう。だから自分が所属している会社の方針に従った主張をしたり、感想を持ち続けることが、消極的な意味での一人の人間が生きていくための自己主張であり、取るべき態度ということになる。中には自分自身が選んだ会社で、その会社からマスコミであれば高い給与を支払われているのであるから、社の方針、考えに従うのは当然ではないかと考える人もいるであろうが、果たしてそうであろうか。小さな出版社ならともかくも新聞社やTV放送局のような大手マスコミは、言ってみればコミュニティーのようなものであろう。それに言論の自由を保つための公共機関としての役割がある。わかりやすく言えば、新聞やTV局の社員が自分が所属している社の方針、方向性の見解と真っ向から対立する意見を堂々と述べることが出来て、それが社としての主張と共存し得るような許容能力が、真の意味での自由でダイナミズムのある言論だと言えるのではないかということだ。公共性が高いとされるマスコミ業界内で会社の見解とは異なる意見を社員が公然と述べる自由があるのかないのかということが、個人としての自己主張の有無が問われる問題であり、芸術における表現の自由や不自由をテーマにするのであればそこを無視している限り、本当の意味での市民的な自由のない大前提での、何の意味も意義もない低俗な政治的プロパガンダに過ぎないと言えよう。一人の人間が生きていくための自己主張がないのに、政治的なイデオロギーを争うことに何の意味があるのかということだ。給料をもらったり、原稿料をもらったり、出演料をもらうために企業の方針に従った意見を述べるということは、それはそれで生きていくために大事なことであるから、無下に否定することはできないが、それは結局は主張のための主張であろう。資本家の走狗としての利己主義的な意見に過ぎないとも言える。日本には掃いて捨てるほどの主張が言論空間を埋め尽くしているが、メディアの情報は99%がそのような性質のものである。そしてその総体が国家としての方向性や主張にもなってしまっている。日本は韓国程ではないにせよ、小さな国なのである。便宜的に作り上げられて対立の争点や意見が、日本の全体性を簡単に左右してしまう。本当の意味での一人の人間が生きていくための自己主張が存在しないから、結局は虚しいイデオロギー論争ばかりに膨大な時間と労力を費やして、本当の意味での国家としての自立した主張がいつまで経っても生まれてこないのだ。日韓の徴用工や慰安婦の問題も同じである。1965年の日韓基本条約で解決済みであるという日本の主張は一見は尤もではあるが、本当に必要な主張はそうではないであろう。本質的に重要なことは、それ以前に日本の政治が、決してゆるがせにしてはならない日本にとっての正しい歴史認識を主張し続けることをある時期から放棄してしまったことであろう。だから韓国はいつまで経っても国家間の条約や取り決めを都合よく無視したり、反故にすることを何とも思わないのである。要するに私が言いたいことは、一人の人間が生きていくために必要な自己主張と、日本が独立国家として存続していくために必要な対外的な主張は、レベルや位相は全然、異なるが無関係ではないし、最終的には一つの海流(国家)に辿りつく無数の川(個人)の流れではないのかということである。主張のための主張で何とか生きてこれた時代は、我々の世代で終わってしまったのである。これからの息子たちの時代は、一人一人が生きていくための自己主張を、国家としての主張といかに有機的に結び付けていくかということを真剣に考えなければならないということではないのか。