龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ウクライナ危機に見る日本の安全保障の問題

ウクライナで起こっていることは、日本でも起こり得るという認識を持つ必要がある。桜が咲いて、暖かくなってきたからといって、いつまでも平和ボケしている場合ではない。今更ではあるが、日本の安全保障の有り方について、政治家に任せていても堂々巡りのプロレス的なパフォーマンス討論から離れられないようなので、国民レベルで危機感を共有して、政治に影響を与えていかなければ、いざその時が来れば全ては手遅れになってしまうであろう。先ずNATOに加盟していないウクライナとは違って、日本には日米安保という強力な軍事同盟が存在するので、他国が日本国内に侵攻してくることはないし、仮に侵攻してくる事態になったとしても米軍が本国から派兵されて守ってくれるであろうという楽観論が趨勢になっているのであれば、それは間違っていると言わなければならない。確かに平時であれば米軍の抑止力が防御壁となって、いきなりロシアや中国が日本に侵攻してくることはあり得ないであろうが、今後もしロシアとウクライナの戦争が拡大して第三次世界大戦に発展していけば、平和ボケの無防備な日本は侵攻、占領されて、日本列島そのものを太平洋側からの攻撃や米軍のロシアや中国への侵入を防ぐための防御壁になされることはあり得ると言う以上に地政学的にそうならざるを得ないと見做すべきであろう。仮にそうなった場合、日本はウクライナと同じ惨状に陥るであろう。その時の状況にもよるので一概には言えないが、日米安保などと言っても、アメリカが侵略された日本を守るために軍隊を出動させるかどうかは、アメリカが決定することである。核戦争になる恐れが高いとして直接的な戦闘が回避される可能性が高いことは否定できない。日本は日米安保に基づいて米軍の出動を要請することは出来るであろうが、要請しようが懇願しようが、アメリカがNOと言えばNOなのである。重要なことなので繰り返すが、それはアメリカが決定することであって、その判断に日本政府は1ミリも1グラムも関与できないということなのだ。それは日米地位協定の不平等さを見ても明らかなことであって、日本はアメリカと対等ではないのである。対等でないどころか隷属しているだけなので、言ってみれば奴隷が迫害を受けて殺されそうになった時に所有者である主人のご厚意による救済を期待するしかないといったことと何一つとして違いはないということだ。今のアメリカはかつてのベトナム戦争のような泥沼の地上戦を非常に嫌がる。戦争と言っても遠距離からのミサイル攻撃であるとか空爆に限定した「綺麗な」戦法を採用する。言うまでもないことだが地上戦になると総合的に軍事力が勝っていても、多数の兵士が死ぬことになるし、莫大な戦費の蕩尽や国民の厭戦ムードなどで国力が疲弊したり、国内の政治批判の声が大きくなる。それはロシアとウクライナの戦争を見てもわかることで、戦死者の数で言えば軍事力が圧倒しているはずのロシアの方が上回っていると言われているし、本当かどうかはわからないがロシアの1日の戦費が2兆円だとも言われている。そういう戦争を日米安保条約があると言っても、アメリカが日本のために命や金を惜しまずにしてくれると考えることが適切であるのかということだ。結局、日本が有事に陥ればウクライナと同様に自力で戦わざるを得ないこととなるであろう。アメリカは日本に武器と情報を供与するだけということになりかねない。日本の自衛隊が本気になれば、(本気になるとは考え難いが)、それなりの戦闘能力を発揮するのかも知れないが、言うまでもなく日本には憲法9条の縛りが存在する。戦争放棄の条項があり、自衛のための最低限の武力行使は認められているが、基本的には専守防衛で他を攻撃してはいけないことになっている。さてウクライナのような状態で敵国を攻撃しないで自国を防衛できると本気で考える人間が一人でもいるのであろうか。ウクライナも自国を防衛し、ロシアの軍隊を国外へ押し返し、停戦にするために武力を行使しているものであるが、それが正に戦争状態なのであって、戦意や攻撃こそが防衛になっているのである。日本の共産党の議員に聞きたいが、日本がウクライナのような状態になった時に、今この状況下で砲弾を発射することが果たして合憲か、違憲かを一々国会で審議して決定したり、評価するとでも言うのであろうか。共産党ウクライナの状況と日本の憲法9条を混同して議論するなと主張しているようだが、どう考えても無理で、不可能なことを規定する憲法の条文を世界の情勢の変化に関わらず原理主義的に守り続けることに何の意義と価値があると言うのか。仮に今後、日本がウクライナのような危機的な状況に陥って、憲法9条が日本の平和と安全に寄与しないだけではなくて、阻害要因にしかならない、或いは日本国民の命を守れない原因になったとして安全保障の在り方を根本的に見直さなければならないこととなった時には、戦後、長年憲法9条の護憲を主張し続けてきた共産党やマスコミは当然、その結果の責任を追及され、負わなければならないことを深く肝に銘じていただきたいと思う。社会的に影響力の大きい政党や言論機関の活動に対して、特に多数の国民の生命が関わるようなことの国家理念で間違っていたと認めざるを得ない時には、責任を問われ処罰されることは当然であると言えよう。核兵器についても言及しなければならない。ウクライナは1994年のブダペスト覚書において核兵器をロシアに返還したにも関わらず、約束していたはずの安全保障が得られなかったことから、核兵器を保持していれば侵攻はされなかったはずであり、日本も核兵器を持つことの議論が必要ではないかという論争が巻き起こった。私の個人的な感想で言えば、確かに日本が核兵器を持てるのであれば、持つに越したことはないであろうが、憲法9条の平和主義理念に支配されている風潮の中で現実的な議論になるのかと言えば甚だ疑問である。今まで議論することすら許されなかったタブーの議題が政治的な議論の俎上に上がることに意義があるというのであればその通りなのかも知れないが、結局は日本的な議論のための議論に終始するだけで、意義があったとしても何の効力も生じないものになることは明らかであろう。はっきり言って100年後はともかくも、この10年や20年の間にどのような議論がなされようとも日本が独自で核兵器を所有することはほぼ100%不可能であろう。「表向きは」である。それがどういう意味かと言えば、実際に核兵器を所有していなくとも、対外的に日本は表向きにはそういうことにしているが、本当は持っているかも知れないし、持っていてもおかしくはないと思われるのであれば、それなりの抑止力にはなるということである。ポーカーで言うところのブラフであるが、「正直者は馬鹿を見る」との諺は国際社会における日本の安全保障についてまさに当てはまることではなかろうか。日本が非核三原則の順守を対外的に主張する一方で、秘密裏に核兵器を研究したり、完成品ではない途中段階まで作り上げてどこかに隠しておくようなことはあってしかるべきであり、いやこれを言うとふざけた都市伝説のようになってしまうが、実際にその可能性もあるような気がしないでもない。アメリカ政府がエリア51で宇宙人と共同でUFOを作っているというようなレベルの話しであるが。いずれにせよ日本の政治の根本的な問題は、対外的にそういう諜報的な戦略なり、独立国家としての機密というものが極めて希薄で、マスコミと結託して国民を誑かせたり、国家に都合のよい情報を信じ込ませたり、だます方向性にしかモチベーションが作動していないということなのである。その根源がどこから来ているのかと言えば、今更、指摘するまでもないことであるが、戦後の日本の民主主義とは戦勝国であるアメリカが、アメリカに都合の良い民主主義的な政治体制を日本に植え付け、監視して作られたものであって本当の民主主義ではないということにある。日本の安全保障の問題も言論統制なり誘導も全てはそこを淵源として形成されているということだ。しかしそれならば全てはアメリカが悪いのか、日本の問題はアメリカが悪であることが原因なのかと言えばそういうことではないと考えられる。適切なたとえかどうかはわからないが、親が子供を育てるように、アメリカは日本に民主主義という子供を産み落とし育ててきたのである。それに対して感謝の念を持つべきかどうかはどうでもよいことだが、子供は幼児のころは親の言いなりで親の言うことが全て正しいと信じ切っている。またそういう絶対的な主従関係の下で身の安全が庇護されている。ところが子供も大きくなってくると自分の頭で考える能力や社会性が芽生えてきて、親の言うことが必ずしも正しいものではないことがわかってくる。そうなると子供が親を一人の人間として客観的に評価するようになってきて、親を覚めた目で見るようになったり、全面的に服従しないで批判するようになったりもする。そういう精神的な段階を経過しながら段々と子供は一人の自立した人間へと成長していくものであるが、日本の民主主義は、何十年経っても生まれたばかりの可愛らしい赤ん坊のままで成長がストップしてしまっているのである。少年どころか幼児にすらなり得ていない。まるで奇形である。赤ん坊が自分の頭で物事を考えたり、判断できる訳がないのである。それでは何でこういうことになったのか、親であるアメリカが日本の民主主義を成長させないように抑圧していることが原因なのかと言えば、そういう面もないことはないであろうが、本質的にはそうではないと思われる。この点がなかなか理解されにくいことなのであるが、日本の民主主義の健全な成長を妨害している者とは実は、日本の管理者的な立場である政治やマスコミなのである。日本の民主主義が未熟で、赤ん坊のように無垢である方が、日本を管理する者たちにとっては何よりも自己保身につながるし、操作や搾取がしやすいからである。WGIPによって終戦直後の日本人に戦争への罪悪感を植え付けることは、戦後統治をするGHQの占領政策にとっては重要で、ある意味では当然のこととも言えるが、戦後80年近く経過してもその精神が存続し続けて、日本の安全保障の妨げになっていることは、アメリカの国内的な要請であるのではなくて、日本の政治や言論がそういう構図を必要としているからそうなっているというだけのことなのである。日本の共産党憲法護持の主張もそういう枠組みのからくりの内部に永遠に閉じ込められることに自党のレゾンデートルを見出しているだけでそれが正しいか、有効か、理想的かという問題ではないのである。共産党だけでなく、立憲民主党であっても自民党であっても論調に多少の毛色の違いがあるだけで、同じ枠組みの中に存在すると言う点では同じ穴の狢なのだ。安倍元総理が戦後レジームからの脱却などと言っていたが、あれはそういうことを言えば票が入ることがわかっているから言っていただけのことで、詐欺的とでも言うか、一口で言えば日本の政治は何の成長もない自己保身と、欺瞞の自己増殖だけでどうしようもない腐敗の極みにあると言えよう。アメリカという国は、いやアメリカ以外のどの国であろうと同様であろうが、日本の政治にもうそろそろ成年になれとか、少なくとも少年になってもよい時期だなどとお人好しな忠告をしてはくれない。その国の精神年齢に合わせた対応をして、その関係性を自国に有利に利用しようとするだけである。また奴隷は奴隷に生まれついた訳ではない。奴隷の地位に甘んじて、奴隷のように振舞い続けるから、奴隷であること以外に自己の存在意義が見出せなくなって本物の奴隷になってしまうのだと考えられる。日本人は私は元々優秀な民族であると私は信じている。その優秀な民族である日本人に相応しい政治体制と民主主義をそれこそ命がけで追及していかなければもうどうにもならないであろう。日本の本当の敵は外部にあるのではなくて、内部に存在するのである。その洞察と認識が出発点だ。

(吉川 玲)