龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 97

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事実というものは時に残酷なまでに奇妙である。

9歳の息子がある日突然、行方不明になる。5ヵ月後、警察の捜査で母親の元に連れ戻された子供は明ら

かに別人である。しかし何故か少年は頑なに自分のママだと主張する。母親が自分の子供を見間違える訳

がないのに……。

クリント・イーストウッド監督作品の『チェンジリング』を見た。信じられないことではあるが1928年、

ロサンゼルスで起こった実話であるという。

この少年は私の子供ではない。私の子は今もどこかで生きているはずだ。

手遅れにならない内に早く私の本当の子供を見つけ出して欲しい。

母親として、当然の要求のはずなのだが次第に狂人扱いされるようになる。そしてついに警察の手によっ

て精神病棟に送り込まれる。

この映画を見て痛切に感じたことは、権力が病院やメディアなどの組織と暗黙裡に結託していると、我々

市民はとんでもない暗黒社会に閉じ込めらた状況下に置かれるということである。警察が見つけ出してき

た少年は、実際の子供より7センチも身長が低かったにも関わらず、誰かに連れ去られていた期間のスト

レスで背骨が収縮したのだと説明される。非常に珍しいことではあるが、有り得ないことではないのです

よと。あなたの記憶の中の息子さんと違うだけなのです。この年齢の子供は短期間で急激に変化すること

があります。あなたは今、混乱しているだけなのです。要するに説明の仕方はどうであれ、母親が実の子

供かどうかを見分ける確かさよりも、権力が真実を歪めて押し付ける強制力の方が強いとこのような不条

理が発生するのである。警察が努力して子供を発見し、せっかく母親の元に帰らせてあげることが出来た

のに、当の母親は自分の子供であることを認めようとせずに警察の批判ばかりしている。子育てをするの

がいやになったから嘘をついているのだろう。この母親は異常を来たしているから精神病院で療養しても

らったほうが本人の為である。

有り得る話しである。今から80年も前にアメリカで起こった事件なのだから我々の日常生活とは無関係

だと考える人は間違っている。その時代や国に応じて内容は異なれど、真実とは必ず権力と資本の結託に

よって巧妙に操作され歪められるものなのである。

前回、私は裁判官の痴漢事件について書いた。ある程度、予想できたことではあるがその後まったく報道

が消えてしまった。当局からの報道規制が掛かったのか、あるいはメディア自体が自粛に転じたのか、恐

らくはその両方であると思われる。私は、前回の記事内容通り冤罪の可能性があると思うので裁判官の名

誉のために名前は出さないことにする。しかし、問題はそういうことではないはずだ。裁判官は実際に痴

漢行為をしたかも知れないし、女性が嘘をついている可能性もある。真相は本当は藪の中なのであるが、

行き着くところ真実などどうでもよいはずである。真実に価値を置くのではなく、真実をどのように考え

るかが問題なのだ。痴漢の場合、女性が被害を訴えて現行犯で私人逮捕したのであるからその時点で容疑

者は等しく犯人扱いされなければならない。もちろん可能性としては、女性が示談金目当てで嘘をつくケ

ースや心を病んでいて被害妄想に陥っていることもあるであろう。しかしそういうことは逮捕された容疑

者が裁判で立証していかなければならないことなのである。なぜなら痴漢やDVなどに関する条例や法律

は女性が嘘をつかないという前提条件で作られているので容疑者が無罪を勝ち取るためには、女性が嘘を

ついていることを論理的に証明しなければならないのだ。証明できなければ容疑者は痴漢をしたことにな

る。これが法律であり、裁判である。現実には周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』のよう

に99.7%は有罪となる。こういうことは裁判官なら信号の赤が止まれで、青が進めであること以上に

当たり前のことである。だから私は裁判官が弾劾裁判で訴追される危険性を犯してまで素面で痴漢行為を

するようなことはちょっと考えられないのであるが、かと言って裁判官だからという理由で特別扱いされ

ることは法の下の平等原則において法そのものの欠陥以上に許されないことである。よって痴漢容疑で逮

捕された裁判官は、被害者女性と証言が食い違えばきちんと起訴されて裁判で争わなければならないはず

だ。お茶を濁すように証拠不十分で不起訴にしてはならない。『それボク』の主人公のように膨大な時間

と手間をかけて無罪を立証するための無駄な努力を容疑者裁判官はするべきである。痴漢容疑者の家族た

ちは人目を避けるように世を儚んで生きなければならない。容疑者や家族たちが自殺を考えたり、実際に

自殺をしたとしてもそれはそれで止むを得ないことである。その上でこれまでの判例に従って99.7%

の確立で裁判官は有罪にならなければならないはずだ。たとえ実際には痴漢行為を働いていなくてもであ

る。

真実などどうでもいいではないか。何よりも権威と安定した秩序から生み出される全体的な利益が一義的

に守られなければならないのである。全体的な利益と言っても実際には一部の資本家のものに過ぎないの

だが。

と、こういう事を書かれると困るから権力と利害が一致した時にメディアは情報を報道した翌日に抹殺へ

と走るのである。裁判官の痴漢容疑での逮捕が冤罪を生む構造の象徴として取り上げられると、今後今ま

で同様に強圧的な取締りがしにくくなるからである。だから裁判官だけは例外としてうやむや(不起訴)

にしようということにもなりかねない。しかし、何で私がリスクを冒してまでこのような危険なことを述

べなければならないのだ。私も本当は利己的に自分のことだけを考えて全体の流れに従った穏健な意見を

述べているほうが気が楽なのだ。これは正直な私の気持ちである。だが警察や検察のような硬直化した巨

大組織が腐敗し始めると捜査能力が低下し、真実を見極める力が弱くなる。そうすると威信と権威を保つ

ために証拠を捏造、隠滅したり、無理やり自白させるようなことがごく当たり前のように行われることと

なる。また痴漢やDVなどの微罪を、偏ったイデオロギーに迎合するかのように真実を無視して一方的に

取り締まり検挙率を引き上げようとする。可能性の問題ではなく権力は組織内部の腐敗や能力低下を隠す

ために、大衆意識の低さに付け込んで不可避的にそのような社会へと改変を重ねてゆくのである。私は8

0年前のロサンゼルスについて語っているのではない。映画『チェンジリング』をしっかりと考えながら

鑑賞すれば、私の言わんとすることは理解していただけることであろうと思う。

最後に映画について苦言を呈すれば、主演女優のアンジェリーナ・ジョリーはどう考えてもミスキャスト

であった。我が子が行方不明になった母親があのような、けばい化粧をするか。毒々しいというか、挑発

的な色の口紅を見せられていると彼女を精神病棟へ送り込んだロス市警の判断は正しかったのではないか

と思わず苦笑してしまった。せっかくのいい映画なのにもったいない。アンジェリーナ・ジョリーは痛い

女である。映画タイトルの『チェンジリング』には「取り換えられた子供」の意味があるようだが、どち

らかと言うと主演女優であるアンジェリーナ・ジョリーチェンジリングして欲しかった。