龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと 128


先ず初めに、このシルバーウイーク期間中、これだけインフルエンザが流行っているというのにほとんど

の病院が休暇をとっていたということである。私が最初に息子を連れて行ってリレンザを処方してもらっ

た病院は18日(金)の午後と19日(土)の午前を臨時休診にしていて、18日の午後から23日

(水)まで連休にしていた。私が心配して18日、金曜日の午前中に息子を病院に連れて行ってリレンザ

をもらえたから良かったものの、元妻が言う通りに夕方まで様子を見ていると連休前に病院で診てもらえ

たかどうか、わからなかったのである。後に人から聞いた話しによると、この連休期間中はインフルエン

ザ患者のために休まないで診療するようにとの要請が医師会から各病院に出されていたとのことである。

ところがほとんどの町医者は自分の所にインフルエンザ患者が殺到するのを恐れて、暦通りか、正規の休

日直前を臨時休診にしてまで連休期間を長く取っていたのである。医者も商売だから気持ちはわからない

ではないが、これでは昨今盛んに報道されている医師不足というのも怪しいものである。勤務医と開業医

では労働条件が当然、異なることは言えるであろうが、シルバーウイーク期間中ある大阪の大病院の小児

科勤務医全てもずっと休暇を取っていた。メディアが伝える勤務医の過労死などの報道はどうも疑わし

い。確かにそのような事実もあるのであろうが、日本全体の実情を“正確”に伝えているとは思えない。

はっきり言うが、こういう国民生活の基本となる情報において新聞社やNHKはどこか信用しきれない部分

がある。要するに報道側が金儲けの論理で万人に受け入れられやすいように適度に情報に手を加える(調

整する)ことは最終的には社会悪であるということである。

医師不足の実態の裏側で、医師の怠慢が隠されているように思える。私は息子が連休期間の直前にインフ

ルエンザに罹ったからといって、病院や医者の悪口を言って鬱憤を晴らすことが本意なのではない。もっ

と根本的で、おそらく多くの人には過激すぎると思うであろう事を考えている。

それは国民の祝日についてである。そもそも、未だに国が指定する特定の日を休日として国民が唯々諾々

と従うことが国益に適っているのであろうか。自分が仕事を休みたい日は会社員であろうと、自営業者で

あろうと自分自身で決めて休暇の計画を立てることが本来、自立した人間として当然なのではないのか。

昨今の環境問題において考えて見ても、日本という国家を一体の人体と考えれば、絶えず“特定箇所”と

“特定時期”に多大な負荷がかかることは、心筋梗塞や脳溢血と同様の症例を地球に与えていることにな

るのではないのか。地方分権で都市部に集中した人口を分散していかなければならないのと同様に、人間

の移動においても一時期に集中しないように制度を改める時期にきているように思える。それが祝日制度

の廃止だ。特定の日に特定の場所で大移動が起こるから、二酸化炭素も多く発生するであろうし、高速道

路などの道も痛みやすく補修に費用が掛かることとなる。我々は今や奴隷ではないのだから道路の大渋滞

や通常より料金の高い期間の混み合った旅行で未来永劫、我慢しなければならない理由はないはずだ。民

間会社のサラリーマンも公務員も学校の生徒たちも、国民の祝日を全て廃止してその代わりに自分たち

(家族)で決めた一定期間をバカンスとして過ごすことが出来れば、どれだけ自分の人生が豊かになるの

か想像して欲しい。

そうしたところで(国民の祝日を廃止したところで)何の不都合があるのだ。

本当は我々はもっと素晴らしい人生を送ることが出来るにもかかわらず、国家権力や一部の資本家が我々

の自由を踏みにじっていることに、いい加減に日本人は気づかなければならない。秋分の日や体育の日な

ど糞くらえだ。そんな名目が、我々の人生にいかに貢献しているか具体的に述べてみろ。2020年まで

に1990年比で温室効果ガスを25%削減すると高らかに謳うのであれば、環境税などの法人対策では

なく人間の分布と移動を再デザインしなければならないのである。わかるか。正しい選択というものが常

に国民の幸福に寄与するものであることを。

もう一点は離婚後の父親と母親の関係を“規整”する民法のあり方についてである。私は今年の6月中旬

にやっと元妻との離婚が成立したが、共同親権の代替案となる親権と監護権の分離にどれだけ苦労したこ

とか、簡単に言葉にしようがないほどである。今回、息子がインフルエンザに罹った場合のようなことを

想定して、私は頑なに共同で子育てするところの親権、監護権分離に拘り、高裁までいって辛うじて認め

られたものである。どうして父親が、離婚後の子供の生活環境を守ることがこれほど困難でなければなら

ないのか言ってみろよ。現在の民法は“子供の見殺し”どころか、“未必の故意”として一定数の子供を

殺している。本質的に痴漢やストーカーにも劣る性根の持ち主たちが、これまでエリートとして日本を支

配してきた結果だ。一般の大衆が分かりにくいのは一方で国益としての少子化対策や家族の紐帯を推奨し

ながら、もう一方で制度としての婚姻主義に囚われるあまり、破綻した夫婦間の子育て能力をまったく認

めようとしないことである。子育てに際して婚姻というよくわからない書面上の契約を境界にして父親と

母親を分断し、子供を不幸にしているのである。これは何度も言うとおり冷戦下におけるイデオロギー

2項対立の残滓に過ぎない。一人親で育てるほうが子供の為になる場合が多いのは認めるが、離婚後にお

いてすら共同で子育てする方が適切であるケースが一定割合あるのは厳然とした事実である。現に私の場

合がそうである。1年間に離婚するカップルが何組あるのか知れないが、その関係の険悪さの度合いにお

いて私はトップ10に入るとまでは言わないが上位0.1%に入ることはおそらく間違いない。なにせ9

0%が協議離婚であるのに、私の場合は離婚以前に親族間で民事裁判していた上に離婚裁判でも控訴審

でいってやっと和解(離婚)した位であるのだから。それでも私と元妻は今でも子育てにおいて最低限の

協力関係は取り合えている。どうだ、何か文句があるなら言ってみろ。

離婚しても父親と母親が望むのであれば共同で子育てすべきだ。私の元妻もそのように望んでいたのであ

るが、離婚後の共同親権制度がないがためにここまで縺れ揉めたのである。こういう弱い者(幼児)虐め

のおためごかし(現行制度)は古臭い時代遅れのイデオロギーやら、“常識”を支配しながら大衆を支配

しているマスコミの既得権益に複雑に化学反応のように結びついて強固な結晶構造となっているのであ

る。私は正直なところそのようなインチキを堂々と標榜する連中に殺意に近いものを感じる。

たとえば婚姻の夫婦別姓を新たに法制化するのであれば、それ自体に私は何の反対も無いが結局のところ

どうでもよいことである。要するに過去のイデオロギーに囚われているだけで本当の国民目線ではあり得

ないし、国民の直接的な利益とは無関係なものである。社民党が連立に入っていることがそのような法案

提起の原因であろうが、私が言いたいことは相矛盾するベクトルを一つの制度に閉じ込めることは国民の

不幸以外に意味するものは何もないということである。夫婦別姓というような段階的な婚姻制度の破壊を

誘導するのであれば、端から“婚姻制度廃止”を正々堂々と開陳すればいいじゃないか。本当の目的を隠

しながら別の建前で社会の仕組みを作っていくようなやり方は、国民目線とは言えないし、国民のための

政治の対極にあるものである。

そういうところが社民党の小賢しくも、インチキ臭いところである。バカのくせに国民を洗脳しようとな

ど大それたことを考えるな。胸糞悪いわ。おまえらは自分たちが一体、何様のつもりだと思っているん

だ。そういうところが大多数の国民から信用されぬ根本原因だとまだ気付かぬか。

今の時代、真面目に一生懸命働いても結婚できない若者が一定の比率で存在するであろうし、その比率は

今後高まっていく一方のように思える。夢や希望もないことを言ってしまうが、はっきり言って金のない

人間は結婚ができない。これは事実である。そのような社会にこれまでの自民党政権がしてしまったのだ

から、どうしようもないことである。政権が代わったからと言って5年や10年でそう簡単に社会構造が

変わるとも思えない。このままいけば数年後には、ほんの一握りの上流階級の人間しか結婚して子孫を残

せない社会になる可能性が高いと思われる。そもそも住宅ローンを組むことすら難しくなっているのに結

婚など出来るわけがない。

こういう世相であれば事実婚であっても未入籍であっても子供をきちんと養い育てていける環境や、離婚

後に父親と母親が共同で子育て出来る社会制度を整えることが急務のはずである。婚姻という骨格の枠組

みの中で夫婦別姓などという男女間の冷戦的なイデオロギーにこだわり続けることは、時代錯誤というよ

りも頑迷固陋な主張に過ぎない。そのようなピントの外れた得点稼ぎが、もやもやとした悪い空気となっ

て日本を間違った方向へ導いていくのである。

世の中には、誰かを洗脳したり、誰かに洗脳されることから離れられないような人間がたくさん存在す

る。そういう人は政治に関わるべきではないと思う。