龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

資本主義と人の道理

世の中には他人事で自分とは無関係にして、それでも腹が立つということがある。一方で自分の利害と関係しないことについては、ほとんど腹が立たないという人も多いであろう。私は人と比べたことがないし、また比べられるものでもないが、どちらかと言えば私は、自分と無関係でも腹が立つことが多い方だと思われる。そのような言動をしていると、時に人から正義感が強いと称せられることもあるのだが、正義感の問題ではないのである。自分のことながらうまく説明できないのだが、正義感とか主義などといった大層なことではなくて、何というのか道理の合わないものに囲まれて、その状態に慣らされてしまうと、自分自身が道理から外れた人間に貶められるような恐怖感があるのだと思われる。老子の思想ではないが、最終的に人を救ってくれるものは私は神や仏ではなくて道理だと信じている。だから道理とまったく無関係に生きているような人間は、自分とはまったく異なる人種だと思っているし、そういう人を深く理解したいとも思わない。また理解すべく努力の価値もない。道理なき人間は単に金儲けの方法や自分を輝かせたり権威付ける仕組みを無節操に追及しているだけで(まあ、それが人間生活というものかも知れないが)、所詮は自分を正当化する思考回路しか持ち得ないから、環境が大きく変化して詭弁で適応できなくなった時にはまるで元から存在しなかったように静かに滅んでいくだけのことである。最後に残る真理が、道理であると考えれば当然のことである。今の民主党政治など何をか言わんや、だ。国家も最終的には道理と共にしか存立し得ないことを忘れてはならない。
さて、人それぞれに考えはあろうが、自分とは無関係にして腹が立つことの一例を具体的に取り上げることにする。私は賃貸マンションの更新料なるものは道理に外れていると思う。実体が伴わない金を請求するという慣例が一部地域にあること自体が腹立たしい。更新と言ったところで年を跨ぐだけのことで、家主には何の出費もないのである。継続して住みたいのであれば更新料を払えと言っているだけのことである。根拠のない金を請求して心が痛まないのだろうか。強欲なだけの人間には道理がない。私も小さな商売を営んでいる立場にあるので、時には取引上の優越的な立場を利用して、諸費用とか手数料などという名目で金を請求できないことはない。しかしコストや手間に見合った正当な請求ではなく、単に立場を利用しての請求は絶対にしようとは思わない。そういうことをすれば、先ず何よりも顧客や仕入先との信頼関係が損なわれてしまう。家主と店子の関係は、通常のビジネスとは別だと考える人もいるかも知れないが、昨今は長引く不景気の影響でマンションやテナントの空き家も多く、自由競争原理が適用されて当然なのだから、特定地域のみが談合のように更新料請求の慣例を固定化させているのは問題だと思われる。ということで京都という土地柄はろくでもない所だなと思えてならない。確かに京都は優良企業が多く、進取の精神にも富んでいる都市であるが、末端の庶民は気位とかプライドだけは妙に高いのに、よそ者に対しては排他的で、こと金に関してはせこいという印象が強い。見栄えが第一で心に欠けている。私の偏見も混じっているかも知れないが、一般的に金に“がめつい”イメージのある大阪には、更新料の慣例など存在しないのも事実である。マンションの更新料そのものについては、最高裁で合憲との判決が出ているが、一部の地域が談合的に足並み揃えて、更新料を請求する慣例が問題ないということにはならないであろう。要するにこれは個別の問題ではなく、政治の領分なのである。きちんと国(地方分権の流れで言えば京都府)が自由競争を促すべきガイドラインを示して、業界を指導すべき事案なのである。京都に住んでいる人間だけが更新料を払わなければならないとすれば、あまりに不合理であると言えよう。契約時に更新料請求のないマンションが希望地域に少なければ、対等な契約とは言えないであろう。押し付けられているだけである。更新料があって悪いということではなく、マンションを借りる人間の選択の余地が十全に保証されるべきである。