龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

陰謀論と日本の国体

巷には陰謀論なるものが密やかに語り継がれている。陰謀論とは世界の背後で、人類を支配するために戦争や金融不安を引き起こしたり、エイズなどの病気を蔓延させる計画を、一つの筋書の下に実行している勢力が存在すると信ずるイデオロギーである。この陰謀論なるものは昔からあったし、今も尚、廃れてはいない。背後の勢力とはユダヤ資本であったり、フリーメイソンであったり、またそれらの組織と結びついたアメリカ合衆国であったりする。この陰謀論というものに対して、どのような態度で向き合うかということが、現代社会において知的に生きる上での一つの要点になることは間違いないであろうと思われる。そこで私個人の考えを述べたいのであるが、国家というものは元から陰謀的である。どのような国であれ全ての重要事項が国民に情報公開された上で民主的に運営されているわけではない。必ず謀(はかりごと)によって権力は、大衆を統治しようとするものである。しかし全世界の権力者や富裕層の論理が個々の国家の利害を超越して横断的に結託するところの地球規模の陰謀が果たして存在するかということになれば、私はまったくないとは言えないが、少なくともそれは一つや二つの文脈の中で計画され、実行されるものであることはあり得ないと思うのだ。フリーメイソンであれユダヤ資本であれ、華僑でも何でもいいが、絶大な財力やグローバルな規模を誇る組織であれば、世界の潮流に対してそれなりの影響力を有するであろうが、それら無数の影響力の束が陰謀という一つの脚本に世界の裏側で統合されることなど、常識的に考えても不可能である。しかしである。ここからが重要だが、それでも大国は大国一国だけの都合で戦争の口実を作り上げることは出来るし、実際にそうしていると思う。具体的に言えば、2001年に発生した9・11同時多発テロ事件は、私はアメリカの自作自演だと考えている。但し、私はそうだと確信しているが、それについて誰かと議論しようとも思わないし、賛同者を増やそうなどとはまったく考えていない。そんなことをしたところで無意味である、と達観しているが、真実の感覚だけはどこまでも即物的に泰然として私の内側にある。さらに言えば一時、ネット上で9・11アメリカ自作自演説を権威主義的に必死になって打ち消していた日本の大学教授がいたが、私はその人はCIAの工作員としてネットの風評を沈めるために活動していたのだと見ている。ともあれ戦争をするための確かな口実を作るというやり方は、アメリカという国の常套手段である。しかしだからと言って、一足飛びに飛躍して、アメリカが世界の紛争を全て自国に都合のよいように引き起こし、コントロールしてきたと考えるのは何の根拠もない陰謀史観に過ぎない。我々は、今、なぜこのように陰謀論エスタブリッシュメントによる公式の見解と表裏をなすように流布され、一定の割合で信じられることになるのかについて検証する必要性があるように思われる。先ず第一に考えられることは、陰謀論の本や雑誌などは商業的に決して規模は大きくはないが、それなりのマーケットを獲得しているところにある。盲目的に信じる人がいるから、その信者の好奇心という需要を満たすために、次々と陰謀論が生産され供給されなければならないという理屈になる。第二はより根源的な問題であるが、陰謀論者が悪意や売らんかな主義で風説の流布をしている訳ではなく、本気でそう信じ込んでいること、つまり善意により普及喧伝に努めているという点にある。もちろん誰が何を信じるかは、その人の勝手である。先にも述べたように、私も9・11アメリカの自作自演だと考えている。しかし全てを陰謀論の観点からしか見れない層と、全ての陰謀論をトンデモ説だと物笑いにする層に、世論が二極化する傾向は決して好ましいものでも健全でもあり得ないと私には思われるものである。この二極化は、突き詰めれば冷戦構造による思想対立から来ているのだと、考えられる。冷戦は終わっても、冷戦構造下の資本主義と共産主義の思想対立だけは色濃く世界を覆っている。マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』をDVDで見たが、本当にアメリカという国は、社会主義共産主義の思想を毛嫌いしていることがよくわかる。“共存共栄”という社会主義的な考えはアメリカの権力にとっては悪そのものなのである。日本は資本主義国であり、アメリカの同盟国だから基本的にはアメリカの縮図にあると言えるが、もちろんアメリカ的な競争原理至上主義の思想を否定する人々は日本にも多く存在する。しかし戦後の日本では資本主義と共産主義の狭間で中庸的に日本独自の思想を育む方向性にはなく、翻弄されるように親米(資本主義)と反米に、あるいは親中(社会主義)と反中に二極化されてしまった。陰謀論とは、そのように二極化された冷戦構造意識に淵源しているので、世界の見方、解釈が極端に偏っている、と言える。そういう意味では陰謀論者ほど正しく平板に世界を見れていない人種はいないとも言えるであろう。日本の政治がこの先、少しでも進歩してゆくためには、多くの国民がこのような陰謀論に過度に惑わされることなく、正しく世界を見るための思考的訓練というものを積んでいかなければならないとも強く感じるものである。しかし日本の現況を見るに中々難しそうである。知識人や学校の教師、ジャーナリズム等の言論を見ていても、冷戦の頚木から解放されているようには見えない。むしろ自ら進んでそれらの思想的な安住の地に居座り続けているような観すらある。また頭のよい人間ほど洗脳され易く、また洗脳から抜け難いとも見れる。たとえばオウム真理教は、反米とアンチフリーメイソンを組織の思想的な土台としていた。オウムの機関誌であったヴァジラヤーナ・サッチャには米軍からオウムの施設が毒ガス攻撃を受けていたとか、フリーメイソンの洗脳の実態が書かれていたように記憶している。当時、オウムに帰依していた若者たちは、頭脳が優秀で、性格的にも真面目かつ純粋な人間が多かったと伝えられていたが、頭が良くて純粋だからこそ物欲や金銭欲の権化としてのアメリカの影響力、圧力が日本人の精神や日本という国の権力機構にとって弊害でしかないことを直感的に気づいていた人々であったのだと思う。親の期待通りに日本のオーソドックスな権威の型に盲目的に奉仕することを拒否する内的な純粋性は、単にその人間の個性というよりは、私はオウムの信者についていえば、オウムを擁護するつもりは毛頭ないが、その時代が求める要請であったように思えてならない。よって1980年代後半ごろから麻原が、反米思想と仏教を結びつけたオウム真理教という宗教組織を作り上げ、組織が拡大するにつれてロシアや北朝鮮に接近し、ロシアでは実際に信者を獲得していたという事実は、オウムの犯罪性だけでなく社会学的な見地から、つまりは現代日本における国体の欠陥というか問題との対照において考察されるべきテーマでもあると思えるのである。私はオウムとは戦後の冷戦構造における政治空間の歪みから産み落とされた魔物であったように思えてならない。もっと具体的にわかりやすく言えば、日本が資本主義のアメリカに対してであれ、韓国に対しても、あるいは共産主義の中国やロシアに対しても、たとえ対等とは言えなくとも自主独立国家として毅然として振る舞えるような国であれば、オウムのようなカルト集団が生み出される余地はなかったと思えるのである。だからそういう意味では、これからも第二、第三のオウムが日本に出現する可能性は大いにあるような気が私にはするのだ。そして言うまでもなく冷戦意識からの脱却は日本だけでなく人類共通の問題であるとも言える。日本が歴とした独立国家である条件とは、時には世界に対して独立した文脈の独立した視点を持つことを恐れないという凛とした態度にあるのであって、国防の問題を別にすれば必ずしも軍事力を後ろ盾にしなければならないということではないと思う。それが大国や隣国のご都合に追従して、金ばかり出させられているようでは到底、独立国家とは言えないものだ。もちろん人それぞれに見方、考え方は様々であろうし、私も自分の考えに固執するものではないが、但し、現実を現実として真正面から正しく見ようとする“姿勢”の重要性だけは譲れない思いだ。ゆがんだものも、真っ直ぐなものも知性であることに変わりはないが、あるいは、ゆがんでいる程、高等なように見えもするが、ゆがんだものはゆがんだ結果しかもたらさないということだ。その信念が私の中心である。