龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

未だ反省のない朝日新聞

人間、生きている限り学び続けなければならないこととは、人は自分と考えが違うものであり、その違いを尊重しなければならないということだ。自分の考えを無理やり相手に押し付けたり、威迫によって改めさせることは出来ない。価値観など違って当たり前なのである。社会に一つの価値しかないのであれば、それはもはや価値ではなく、「原理」である。民主主義社会は無数の価値観の衝突や融合、調整、均衡などによって育まれるものでなければならない。しかしここにおいて重要なことは、お互いの価値観の違いを尊重するだけで共同生活や社会全体が健全かつ十全に機能するのであればそれで良いが、うまくいかない場合にはその原因となる相手の価値観を批判したり、自分の価値観を見直し修正する必要もあるということである。つまり価値観とはそれ自体が目的となる不変的なものではなく、より良く生きていく上での、或いはより良い社会を追求していく上での手段であり、媒介であるということだ。価値観が目的となってしまうと、それは原理なのである。原理とは、その原理にそぐわない意見や見方を一方的に否定したり、無視する原理性を有している。さて昨今の朝日新聞についての問題であるが、この文脈に沿って言えば、朝日新聞の論調や編集は民主主義の一翼を担う価値観ではなく、頑なな原理になってしまっている。それが朝日新聞の問題の本質であると考えられるが、朝日新聞は社長が一応の謝罪をして見せたとは言え、本当にその自覚があるのかどうか非常に疑わしいものである。そんなに簡単に反省して、改められる性質のものではないと私は思う。朝日新聞の問題は、社内だけの問題では有り得ない。広く深く、社会全体に悪影響をもたらしているものである。従軍慰安婦の件については、社長は自社の見解に自信を持っているから、アジアの和解のためにもこれまで通りの姿勢で報道していくと述べている。強制連行の事実が否定されても、「強制性」があるので問題の本質は変わらないとの見解である。この強制性という言葉を朝日新聞は多用するものであるが、仮に強制性があったとしてもそれが当時の国家や軍による強制であることを証明しなければ、何の意味もないものである。一部の業者や慰安所の管理者が強制していたのであれば、今の時代のブラック企業と同じことではないのか。企業が残業代も払わずに超過勤務を社員に強いていたとしても国には責任はない。朝日新聞自体が8月5日の記事で、兵士が慰安所に支払っていた金が慰安婦の手元に渡っていたかどうかを含めて、慰安婦の待遇は一様ではなかったと記載していたように記憶している。そうであれば、ここには朝日新聞の主張には矛盾が見られるものである。言うまでもなく軍の規律や服務規程というものは厳密に統一されたものであり、部隊によってまちまちであることは有り得ない。陸軍であれば陸軍で一定しているはずのものである。つまり慰安婦制度が軍や国によって計画され、施行されたものであれば慰安婦の待遇などもある程度は一定していなければおかしいという理屈となる。民間業者の主導で自発的なものであれば、まちまちであって当然である。ところが朝日新聞は、軍や国家による強制の具体的な根拠を何ら明示することもなく、そこには強制性があったから自説には自信があるなどと主張している。さてここにはいかにも朝日新聞的な原理性がふてぶてしく横たわっているとは見れないだろうか。そもそも昨日の謝罪会見にしても原発事故の誤報を盾にして、より一層世間の反感が強い慰安婦問題の露出を小さくコントロールしようとするなど、いかにも朝日新聞らしい姑息さが見られたもので本当の反省があるとは到底考えられないものである。正に朝日新聞の紙面を見るような謝罪会見だ。また朝日新聞原理主義が青少年に与えている精神的な弊害もある。それは価値観が原理となる思想を煽り立てていることから、価値観を少しでも否定されると全人格を否定されたような激しい反応を引き起こし、柔軟に価値観を微修正することでより良い関係や人生を追求しようとする意識が日本人には小さくなっていると考えられることである。価値観の違いによる離婚の増加というのも、まあそういうことの一部であろう。手段と目的を履き違えると世の中はおかしくなるものである。朝日新聞はそういう教訓の反面教師としての価値だけで今後とも存続してゆくことになるのであろうか。