龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

華原朋美の歌うHOWEVER

政治、マスコミ連合を相手に批判ばかりしていると精神衛生上、あまり宜しくないような気がする。どこかで正気のバランス感覚を崩してしまいそうな危なげな不安が付き纏う。気を付けないとその内に自分が燃えるような真っ赤なドレスを着て、一人で繁華街を徘徊していることにもなりかねない。そういうことなので、そうならないためにも今回は気分転換に、ちょっと音楽について述べさせていただくことにする。
以前に私は復帰した歌手の華原朋美さんが、オーケストラに囲まれて身と心を投げ出すような気迫で歌う「I BELEIVE」が大変に素晴しいと賞賛したことがあった。そして今度は、グレイの「HOWEVER」をどこかの広い草原で、同じようにオーケストラをバックに熱唱する動画が配信されているのを見た。感想を言えば、華原さんは小室哲哉氏がコンピュータで作るような、どこか機械的な匂いのする曲を小室氏の弾くキーボードをバックに歌うよりも、このように人間的で情感の深い曲を、多くのアコースティックな伴奏の中心に立って表現している姿の方がよく似合っているというのか、華原さんが本来居るべき場所に立っているというシンプルで力強い説得力のある映像となって、見る者に静かな感動を与えているように感じられる。しかし、グレイのHOWEVWERは選曲とすればどうなのであろうか。華原さんは確かに歌唱力があるのでそれなりに堪能できるのであるが、これはどちらかと言えば男性が歌う曲ではなかろうか。もちろん女性が歌ってはダメだということにはならないが、華原さんの持つ女性的でしなやかな力強さが生かされていなくて、ちょっとミスマッチという気が個人的にはしないでもない。まあ好みの問題もあるであろうが、いずれにせよ、もうそろそろ誰かの名曲をカバーするという所から卒業して、表現者としてのオリジナリティーを追求していかなければならない時期に差し掛かっているのではなかろうかと私は見る。それも誰かにプロデュースしてもらうのではなくて、歌詞ぐらいは自分で作詩しても良いのではないのかと思うのだが。まあその辺のことは一朝一夕にはいかないであろうし、暗中模索の生みの苦しみというか、再生の大変さがあるのであろうが。それと関連したことではあるが、このように踏み込んだ感想を述べながら、こういう間抜けな事を言うのも何だが、実は私は「華原朋美」という名前が中々覚えられないのである。たまに華原さんの歌をユーチューブで聞こうと思っても、いつも「華原」という名前が頭に思い浮かばないのである。それで私は、検索に「小室」と打ち込んで「華原」という名前を見つけ出す作業を毎回、繰り返している。私の物覚えの悪さが第一の原因であることは確かであろうが、それだけでないような気もする。つまりどういうことかと言えば、はっきり言えば「華原朋美」という芸名を変えた方が良いのではないのか。この名前にはどうも昔のイメージが染み込みすぎていて、知名度と親しみはあるかも知れないが、何と言うかキャピキャピし過ぎていて年齢的にもイメージ・チェンジを計った方が良いような気がする。本名でも良いのではないのか。と言っても何という本名か私は知らないが。まあ過去の思い出や思い入れが一杯あって心情的に難しいのかも知れないが、それが出来るかどうかで表現者として新たな再生への本格的な脱皮ができるかどうかが決まってくるようにも感じられる。そういうことを考えながら、私は華原朋美さんが歌うHOWEVERをぼんやりと見ていたのであった。