龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

文明の場と生活の眼

今の政治の動きをどのように見るべきであろうか。自民党の女性閣僚が辞任に追い込まれたり、刑事告発を受けている。たまたまと考えるには、いかにも不自然である。しかしこれがまた日本の日常的な風景でもある。恐らくは政治が国民の目から何か都合の悪いことを隠したり、その方向に焦点を結ばせないために意図的に噴出させられた政治マターである。それでは日本の政治やマスコミは、一体国民から何をどのような理由で見せないようにしているのだろうか。それは日本という国家の存立の在り方を問ふ疑問でもある。
身近な話に転ずるが、私は中学2年生の息子に勉強を教えているというか、教えさせられている。週に3~4日、私の仕事が終わった後の夜9時頃や、息子がクラブ活動のない休日に、家庭教師のように息子と元妻が住むマンションに通っているので大変である。塾にも行かせているのにどうして父親がそこまでしなければならないのかと思わないでもないが、離婚している複雑な(というほど複雑でもないが)家庭環境でもあるので仕方ないところもある。国語の成績が特に芳しくないようなので、1ヶ月半程前にデパートの書店売り場で同一の問題集を2冊買った。学研教育出版が出している『よくわかる現代文問題集』というものである。その問題集で息子と私が一緒に問題を解き、後で答え合わせをするのである。入試対策用に採用されている文章だけに名文が多い。子供に勉強を教えているというより、私は読みながら、ほーとかへぇーとか言いながらその内容に感心ばかりしている有り様である。しかし感心している割には、設問に対しての私の答えは息子と同じ間違いをしていたりすることも多い。名文であるだけでなく、中々に高度な内容なのである。最近の中学生の教材はゆとり教育でなくなって随分、難しくなってきているんだな、しかしこれでは、ほぼ大人向きの学習であると言っていいぐらいだ、などと考えながらその問題集に息子と取り組んできたのであった。ところがである。私にもちょっと抜けている所がある。1ヶ月以上も経ってからやっと気付いたのだが、実はその問題集は高校生用だったのだ。表紙にも裏表紙のどこにも、中学生用とか高校生用などの文言がまったくなかったので全然わからなかった。私の記憶では確か書店の中学生向け問題集の棚に収められていたので、てっきり中学生向けだと思い込んでいたのだ。しかし先日、その問題集の表紙見開き部分に小さく、「本シリーズは高校の授業がよくわかり、センター試験や大学入試の対策ができるように作られています。」と書かれていたのを見つけたのであった。恐らくは書店の店員も中学生向けと勘違いして置き場所を間違えたのではなかろうかと思われる。これはちょっとした笑い話になるであろうが、しかしそれでも私はこの問題集を買ってよかったと考えている。内容が優れている論文やエッセイなどが多いし、手前味噌ではあるが、私が正にブログで述べているようなことが堂々と高らかに主張されている文章に出会って新鮮な驚きを感じているからである。世の中、広いのか狭いのかよくわからないが、私が日頃考えている程度のことは当たり前のことなのであろうが、誰か別の人間によっても密やかに訴えられているのである。しかしそうであればどうしてそのような主張に我々は、いや私は出会う機会が少ないのであろうか。読書量や読書対象の選択に問題があるかも知れないが、それだけの理由ではないと思える。やはりそのような主張は社会の前面に出て来過ぎないように、ある程度コントロールされているのであろう。その分類基準は政治との距離感であると考えられる。新聞やTVニュースなどは実質的には政治と極めて近しくて、ほぼ一体化していると見れるものであり、マスコミはその土俵上(内)で権力相手にむにゃむにゃとした八百長の相撲を取っているようなものである。そういう意味では高校生向けの公的な教科書でない民間業者の作る参考書などに、政治からきちんと距離を置いた主張の文章が掲載されているということは、はっきり言って、塾や市販の問題集などの方が、NHKはもとより新聞やTVニュースなどより一歩も二歩も進んでいるのである。そういうことをこの問題集によって発見できたことは私にとって一つの大きな収穫である。しかしそれでは今の日本にあって、新聞などには何の役割と価値があるのかという根源的な問題に立ち向かわざるを得ない。TVニュースはともかく、新聞の正体と本質とは何なのだろうか。一概に答えられることではないであろうが、少なくとも日々、天声人語を書き写すよりも高校生向けに作られている現代文の問題集を熟読している方が、人生にとって役立つであろうことは間違いないと思われる。そういうことなのでその問題集から一文全文を引用させていただくことにする。辻邦生氏の『文明の場』からの引用文である。
―日本人も西洋人も「同じ文明の場」で働いているという意識は、横文字の書物を早く読んだり、外国に行ったりしたというだけで学者でいられた時代を終わらせた点で、よりいっそうの意味がある。優れた仕事であれば、日本人だろうと、西洋人だろうと、等しく評価される。最近では、日本人の業績が盗まれるというような不穏な話も聞く。盗まれたら、もっといいものを出せばいい、と私の知人などは笑っていたが、そうしたいい仕事を世界に向かって出してゆく―そういう意識が生まれ、そういう時代がきていることは事実だろう。
 ただ明治百年の習慣で、何か事が起こると、すぐ西洋の先例に解決方法を探そうとする気持ちがぬけていない。しかしどんな先例にせよ―例えばカントにしてもヘーゲルにしても、初めからあのような精緻な観念の体系をつくり上げたわけではなく、いずれも時代の矛盾の中で苦しみ、その矛盾を解こうとして努めた結果が、今私たちが眼にする哲学なのだ。
 かつてはカント哲学やヘーゲル哲学は既成の知識として取り扱われた。つまりどこか西洋という模範的な世界で、人間離れした哲人が、高級な、俗人の関与できぬ、難しい学問を展開した、と受け取られていたのである。しかし西洋が「同じ文明の場」として意識されるとき、私たちの眼には、寒い朝、赤くなった鼻をこすりこすり、学生たちに講義しているカントの姿が浮かぶ。イエナ会戦の砲声を聞きながら、興奮して世界の夜明けを夢見ていたヘーゲルの血走った眼が見えてくる。つまりカントもヘーゲルも今の私たちと同じように、現実の矛盾に悩み、生活に苦しみ、せっせとアルバイトをし、そのうえで、矛盾や苦悩を解決しうる道を、考え抜いていたのである。それは今私たちが終末的な状況に悩み、社会の矛盾に引き裂かれているのと全く同じである。
 「同じ文明の場」で生きるとは、日本人が苦しみ、悩んでいる事柄は、多かれ少なかれ西洋でもアラブ世界でもアジアでも苦しみ、悩んでいる、と意識することだ。平和問題であれ、現代の資本主義の胸のえぐられるような矛盾であれ、集団主義の暴力、不毛な愛、非人間化を強いる技術支配であれ、それは程度の差こそあれ、同じように世界を苦しめているのである。ここで問題なのは、現実の矛盾をいかに自分の眼で直視するかということだ。西洋から借りた「哲学」をいかに振り回してみても、単なる知的虚栄心を満足させるだけで、そんなものは何の役にも立たない。また、私たちの間で流行する言葉で現実を整理してみても、それは事態の解決をいささかも進めない。大切なのは、どの領域であれ、他人の眼を意識せず、本気で、忍耐強く、矛盾の構造を見抜くことだ。特に自分の言葉で考えることだ。日本人は執念深くないし、気分屋で、意識過剰だ。すぐ昔のことを忘れるし、天気のよしあしで気分まで左右される。
 それがプラスにはたらくことも事実だが、その逆になることは大いにある。地道であること、人にめだたぬこと、深く自分を信じること、単純な生活を送ること―そういうことを通してしか、個人が世界と結びつけない時代なのだ。―