龍のひげ’s blog

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単純明快なボクシングの不可解さについて

そうだよ。帝拳ジムの本田会長の言う通りだ。WBA村田諒太の世界戦で不可解な判定をした二人のジャッジに対して処分をしないのであれば、再戦に応じるべきではない。処分なしであれば、今後ともこのようなことが継続される可能性があるからな。そもそもあのパナマとカナダのジャッジはボクシングというものの本質をわかっていないよ。興行としてのボクシングの本質とは何か。それは、どちらが強いかだ。それだけなんだよ。小さな男の子が、父親にライオンと虎が戦えばどちらが強い、なんて無邪気に聞いたりするでしょ。ボクシングもそれと同じなんだな。どちらが強いか、単純明快にはっきりわかるのがKOなんだけれど、KOで決着しない場合は判定ということになる。判定であっても強い(優勢の)方が勝ちにならなければならないのは当然なんだけれど、弱い(劣勢の)方が試合展開の中で強く見せて勝ってしまうパターンがあって、その典型的な方法が、アウトボクシングで距離を取って打ち合いを避ける、相手に距離を詰められて打たれるとクリンチをして逃げる、ロープ際に追い詰められた時には、徹底してガードを固めながら、ロープの弾性を利用して相手のパンチの威力を弱めると同時に、打ち疲れを待って反撃する、KOされるリスクの小さい距離から手数だけを出して、有効打はないにも関わらず試合を支配しているように見せる、などである。そういう戦法も当然、ボクシングの一部なので、選手の力量、優劣が均衡していて、明確な差がない場合にそのような技術の差で勝敗が決まることは止むを得ないことである。しかしこの前の村田諒太とエンダムの試合のようにダウンを喫したり、その後もダウン寸前まで追い込まれていた方のエンダムが受けているダメージが大きいのは明らかであり、ボクシングというスポーツの本質上、受けているダメージの大きい方の選手が、相手よりも弱い(敗者)とみなされなければならないことは当然である。相手よりもダメージが大きいのに、手数やクリンチだけの試合をする選手の方が、変な判定で勝者になってしまうと、アマチュアはともかくもプロの試合では、どちらが本当に強いのかわからなくなってしまうゆえに、その競技そのものへの興味や関心が薄らいでしまうものである。どうもボクシングの世界戦にはそういう政治的な要素が濃厚にあって、そういうところが今一普及しきれないネックになっているような気がしてならない。単純に強い方が勝つという試合は見ていて面白いのだけれど、不可解な判定というものは、見ていて馬鹿らしいというか、とにかく白けてしまうんだよな。極論すればそのような不可解な殴り合いの野蛮なスポーツなんてこの世に存在しなくてもいいんだよ。
審判の人選も大きな問題だと思うけれど、裁判官の判決と同じで、自分の判断一つで一人の人間の人生を神のように左右したり、ファイトマネーや興行の大金を動かすことになれば、ともすれば大勢の見方とは異なるジャッジをすることで自らの職務をより一層に権威化させたり、自らの存在価値を示したいと考える傾向性が年齢と共に肥大化していくものである。裁判官もボクシングのジャッジもそのような邪な人間は、きちんとした処分が下されるべきだと私は思う。