龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

性犯罪と国家権力について


可哀そうに、この人は人相が変わってしまったな。憤怒の形相である。髪の毛から艶もなくなっているし。最初に記者会見で現れた時には綺麗なお嬢さんだったのに。

詩織さんは、元TBS記者のワシントン支局長から性的暴行を受けたとして被害届を出していたが東京地検に不起訴処分にされ、その後、検察審査会に審理の申し立てをしていたものの9月21日付で「不起訴相当」の審判が下された。まあ、人相も変わるであろう。検察審査会は、裁判員制度と同様に建前的には司法に民意を反映させるということになっているが、果たして素人の審査員にどこまで独立した精神で真相に迫った判断を下せるかは疑問である。審査の補助をする弁護士の助言による誘導の影響は小さくはないと考えるのが常識的な見方であろう。よって審査補助の中立性が問題となるが、審査補助員はくじで無作為に選任される訳ではない。結局は司法内部の手続きによるものだから、政治の関与を完全に排除することなど無理であろう。まあ今の時期なら選挙に対する影響ということも当然考慮されるであろうし、安倍総理自民党に必要以上にダメージを与えるような審判を下すことは少なくともかなり勇気のいることではある。また検察が一旦、不起訴にしたものを起訴相当、或いは不起訴不当の決定をなすにはそれ相応の「証拠」がいる。状況証拠では不十分である。状況証拠だけで黒にできるのは本職の裁判官だけである。ここにおいて性犯罪における証拠の取り調べや、取り扱われ方について改めて再考する必要性がある。レイプなどの性犯罪において最重要な証拠とは何かと言えば、被害者である女性の証言である。女性が誰かから性犯罪を受けたとして警察に被害届を出せば、警察は基本的には女性がそのような嘘をつくわけがないとして、女性の証言は真実であるという前提のもとに捜査が着手されるものである。なぜならその親告の段階で女性が嘘を言っているかも知れないなどという可能性を考慮して一々疑っていれば、性犯罪など全ては捜査対象から外れてしまう性質のものなので、女性の証言が最大の証拠となることはある意味では当然なのである。しかしごく稀にではあるが、女性の性犯罪被害の親告が嘘である場合もある。ほとんどは真実であっても、中には様々な込み入った理由で女性が性犯罪被害をでっち上げるケースもある。それが全体の中の1%なのか、0.1%なのかはともかく、そのような特殊例が警察の紋切り型の取り調べによって冤罪が発生してしまうものであり、それは言うまでもなく重大な社会問題であると言える。しかしいずれにせよ女性の証言に信憑性があるか、嘘や矛盾がないかについては容疑者の男性を逮捕して、取り調べをして照合して見ないことには絶対にわからないことである。冤罪が発生するケースは容疑者を拘置して取り調べをしている段階で、被害女性の証言にはっきりと嘘とまでは言えなくとも、不自然さや全体との整合性が取れないようなところが出てきても警察はそういうことを一切無視して、容疑者を無理やり自白に追い込んでしまうところにあるものである。性犯罪事件は、我々男性からすれば、性犯罪厳罰化の法案を待つまでもなく現段階で既に魔女狩りと同じなのである。一旦、女性から被害届が出されて、容疑者として逮捕、監禁されてしまえばそれでジ・エンドである。起訴されて有罪になるものである。しかしそうは言っても、いくら堕落した警察であっても被害女性の証言があまりにも支離滅裂であったり、信用性に欠けるものであれば、警察や検察の威信にも関わることなので送致されることはなく、容疑者は証拠不十分として釈放されることになるであろう。しかしそのようなケースはごく例外だと考えられる。大抵の場合は性犯罪被害を訴える女性は、真実を述べているのである。いずれにせよ、そういうことは容疑者を逮捕して、徹底的な取り調べをしないことには判断がつかないものである。一旦逮捕したからには、警察の沽券を守るために、疑わしきも全てを有罪にすべきの論理構造は別の問題であって、容疑者を逮捕して適正な取り調べをすべきであるということは当然のことなのである。そうでなければ捜査における最重要の被害女性の証言が真実であるのか、嘘であるのかがわからないのだから。ところが詩織さんのケースでは、相手方の男性は裁判所から逮捕状の許可が出ているにも関わらず、どういう訳か直前で逮捕が回避されたものでしょう。こういうことは本来であれば絶対に在り得ないことである。これが何を意味しているかと言えば、警察がその案件については捜査することから手を引いたということ以外に何もないものである。日本の司法システムにおいては警察が捜査から手を引いてしまえば、被害者が何をどのように訴えようとも容疑者は有罪には成り得ないのである。なぜならそれが法治主義というものの一面の真理であるからだ。法と言うものは必ずしも善や真に基づかなくともかまわないということなのである。その判決なり判断が、現下の統治様態において適しているかどうかということなのである。だから極端なことを言えば、人殺しをしても、戦争中のことや正当防衛でなくても無罪になることはあり得るのである。無罪になるというよりも、そもそも事件(表面)化しないであろう。だから詩織さんの場合も、検察審査会において不起訴相当の審判が下されるのはある意味では当然であると思われる。なぜならそれが権力というものだからだ。しかし民事の裁判は多少の意味合いが変わってくるであろうから、どうなるかはわからない。なぜなら民事は当事者間の争いで、基本的には国家権力の意向とは無関係だからである。しかし今の堕落した政治においては、民事裁判にまで圧力をかけてくる可能性があるのではないかと考えられるので心配ではある。