龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

馬鹿げた選挙を中止せよ

今から揉めているようでは先が知れている。リベラル派とは何なのかと言えば、一般的な語意はともかくも民進党内においては、市民運動的な延長の政治感覚を意味していると思われる。そういう色分けに菅直人も含まれて排除されているだけでなく、自らリベラル勢力を結集するチャンスだなどと嘯いているのが可笑しいが、ご当人たちはリベラルを革新勢力みたいな意味合いで考えているのかも知れないが、そうではないであろう。政治というものは権力を掌握した時点で保守にならざるを得ないものである。そういうことは過去の民主党政権において、菅内閣や野田内閣の変節が自ら証明していることではないか。民進党のリベラルとは、言ってみればプロの市民運動家とほとんど同義である。市民運動的な感覚が政治の世界に有害であるとまでは言わないが、そういうものが権力の中心になったり或いは影響力が大きくなり過ぎると、日本の国家体制や政治の安定に混乱をもたらすだけで弊害でしかないものである。なぜなら市民運動的な物の見方や考え方とは近視眼的に特定の問題や変革の必要性を訴えるだけで、全体的な国益を度外視したり無視する傾向性の中にあるからである。いやそれ以上に国益を追求することが何か悪徳であるかのように信じ込んでいて、国益を破壊することが市民運動家としての使命であるかのように考えているような節がある。そしてそのような感覚が政治権力の中核に位置することになると、民主党政権のようにある段階で方向性を180度転じざるを得ないこととなる。これは言ってみれば500人ぐらいの乗客を乗せて飛行しているジャンボジェット機がいきなり宙返りをして、反対方向へ進路を変更しようとするようなものである。そんなアクロバティックな芸当をすれば飛行機は墜落するに決まっている。政治も同じである。そしてそのような民主党政権下の宙返り的な混乱状態の中で、普天間基地移設の問題がアメリカ側との実質的な交渉もなされずに取り下げられたり、尖閣諸島の国有化によって中国国内で破壊的な反日暴動が引き起こされたり、東日本大震災が発生して、放射能汚染が拡散したりもしたのである。左翼の市民運動思想は、末端で個々の問題を取り扱っている限りにおいては良心的なものであると言えるかもしれないが、そういう集合が権力の中核に位置してしまうと非常に危険極まりないのである。政治とは何かと言えば、その根本は国益を追求することである。国益を無視したり破壊して、何か革新的な思想を追及しようとしても結局は政治家個人の利権や地位を守るための精神性の低い堕落した政治にしかならないものである。今の民進党内の混乱を見ていてもそういうことがよくわかるであろう。それぞれの政治家が口では立派なことを一応は言っているが、自分のことしか考えられないのである。政策も理念も何もない。議員の地位に留まるためには政党が消滅したり、一時的に看板を付け替えることなど何とも思っていないのである。そういう人間の集団に国益が追求できる訳がないであろう。民進党などは結局、政党交付金を獲得するための寄せ集めの入れ物でしかなかったのである。そして民進党という名前に政治資金を吸収する力がなくなると、新しいイメージの入れ物に群がってくる。本当に下劣極まりないものである。そういう集団に対して、リベラル排除の多少の篩い分けをしたところで根本的にはさほど変化があるとも思えないのであるが。排除される民進党議員の怒りとは、希望の党の選挙が民進党の政治資金で行われるのであれば、何で現職の民進党議員である自分がその対象から外されなければならないのかという、ある意味ではごもっともな理由からなのであろう。そしてそうであれば、いわゆるリベラル派の議員が結集して新党を立ち上げるからその議員数に応じた政党交付金の取り分をよこせと要求して難航しているのであろうと想像される。ここには政策も理念も何もない。議員の身分と金だけである。自民党のこの時期における解散も含めて、野党の再編にしてもこういう馬鹿げた騒動を日本はいつまで繰り返さなければならないのであろうか。選挙などどうでもよい。選挙など壮大な無駄以外の何物でもない。日本は議員定数の削減と抜本的な政治システムの改革に着手すべきである。