龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

富士山で感じたこと

富士山登山に8月3日から5日まで高校時代の同級生4人で行ってきた。剣ヶ峰からのご来光は5日の早朝4時40分ごろに見ることができた。山頂から眺める日の出の景色を有難く思って拝むような感性を私は特にこれまで持ち合わせてこなかったものだが、そうは言っても初めて富士山から見るご来光はそれなりに感慨深いものであった。先ず何よりも、とても美しい光景であった。ガイドの人が言うには、こんなに綺麗なご来光はなかなか巡り会えないということであった。その日は雲海に映る影富士も見ることが出来たし、登山中には虹も掛かった。私の基本ベースにある合理的思考形式においては、日の出の光景などどこで見ようともその価値は同じだということになるのだが、人間とは自分勝手な思い込みをする生き物であり、そういう私でも富士山の美しいご来光に遭遇すると自分はまるでその聖なる場所に呼ばれて祝福されているかの気持ちになってしまうのである。それでも手を合わせて拝まないところが私らしいところなのだが、一人の日本人として富士山に登ることができたことは本当に嬉しく思うものである。また富士山や富士山から見るご来光が広く信仰の対象となることも、今となってはそれなりに理解できるような気がする。現代においては老若男女の誰もが簡単に富士山登山に挑戦できる時代であるが、かつては女人禁制の場所であり女性が富士山に入れない時代が長い間、続いてきた。男も今のように交通の発達していなかった昔の人々は、京都や江戸から富士山まで何日も掛けて歩いてやってきて山頂に登ったとのことである。まさに命がけの一大イベントである。私のように富士山5合目までバスに乗ってきて添乗員付き添いで登り、また5合目からバスで帰るだけでへとへとに疲れ切っているような脆弱な体力、精神力からすれば本当に頭の下がる思いである。昔の人々がそこまで大変な思いをしながら富士山登山に挑んだ理由は、やはり富士山や富士山から見るご来光にそれだけの価値や有難さがあると考えられていたであろうことが、実際に自分が富士山に登り美しいご来光を見るとわかるのである。具体的に証明するものは何一つとしてないのだけれど、何かしら目に見えないものに富士山に呼ばれて、ご来光の光景に祝福されているかのように、たとえ瞬間的にでも信じられる幸福のために過去から多くの人々が富士山に登り続けているのであろうということだ。そして私がご来光を見ながら感じたことは、富士山の持っている霊性というものは確かに日本最高のパワースポットと呼ばれるだけのことはあって何かあるのである。その何かが日本という国全体を守ってくれている。超自然的な聖なる力で日本という国、そして日本の国民は守られているのだけれど、その一方では恐ろしいことに守られているどころか、政治的に或いは陰謀で攻撃や実験の対象にされていて非常事態が日常的になっているように感じられる。その二つ、両面のギャップというものがあまりにも大き過ぎてどうも自分の内部でうまく結びつかないとでもいうのか、消化することができないのである。だからこそ多くの人々は洗脳されていて真の現実が見えていないのであろうとも思う。生理的に消化できない異物は吐き出す以外に方法はないからだ。もちろんその手の話しは仲間にもしないことだけど、そういうことを思いながら私は富士山のご来光をじっと眺めていたのであった。