龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

精神の逃避と熱狂

支障があるといけないので場所は言わないが、私が行っているスポーツジムは小さなショピングセンターの中にあって、そのショッピングセンターの建物に囲まれた中庭のような人工芝のちょっとした憩いのスペースがある。そのスペースは時に何らかの催し物が出されていることもあるが、ほとんどは閑散として人がいないものである。それが最近のある日のことであるが、私がその前を通り掛かった時にはそのスペースに立錐の余地もないほどに人が立ち並んでいて、係のスタッフらしき人が整理券を配っている光景に出くわした。何事かな、と訝しく思いながらも通り過ぎてジム内でジョギングウェアに着替え、近くの公園に走りに行こうと出てきて見ると、そのスペースでミニコンサートが始まっていたのであった。前方の小さな舞台で3~4人の中学生ぐらいの女の子がハロウィンのような衣装を身にまとって歌い、踊っていた。それまでに見たことも聞いたこともない音楽であった。日曜日とは言え、こんな中学生に働かせてよいものかと思いながらも暫し立ち止まって見ることとなった。アイドルかアイドルの卵なのかわからないが、身体つきが痩せぎすと言うか、まだ肉がついていなくて子供の身体なのである。私にはとても魅力があるとは思えない。見ている観衆の方はと言えば、若者が大半だが中年の人間も一部混じっていて、男が8割ぐらいで女は2割ほどというような構成であった。それでその観衆の反応が凄いのである。見た目にはごく普通の格好をしていて、どこにでもいそうな人々なのであるが、歌のリズムに合わせて拍子を取り、皆が一斉に片手を上げて、右翼の街宣車から出てくるような野太い声で掛け声を合わせている。そのあまりの迫力と熱気に私は魂消てしまった。そして次第に私の関心の対象は歌い手の女の子たちの方から、観衆の方へと移っていったのであった。何でこんな子供みたいな、こう言っては何だが特別な魅力も才能も感じられない対象にこれほどまでに熱狂するのであろうか。そこには一体、どういう精神のカラクリがあるのであろうか。私はこの光景は軍隊と同じではないかとその時に思ったのである。徐々に軍隊のマスパレードを見ているような気になってきたのである。戦争とか戦争を煽り立てるナショナリズムというものと本質的には同質だと考えられる。歌という平和の祭典を戦争と一緒くたにするなと憤慨する人も多いであろうが、そういう人の感情は普段から物事を考えていないことの証拠である。対象は何だってよいのである。皆で心を一つにして何かの対象や理念に熱狂したり、歓喜の渦の中に巻き込まれている状態は、人間が自らの魂の固有性(カルマ)に向き合うことを回避させてくれているがゆえに幸福なのであり、生が充実するのであろう。戦争とはそういうものなのであろう。というよりも戦争とは大衆のそういう心理メカニズムを踏み台にして国威高揚がなされているものである。ナチズムも同じであるが、当時のドイツ人は熱狂的にヒトラーを支持し、崇拝していたものである。今の日本は平和な時代ではあるが、平和であってもそのような戦争や軍隊の「変形」が日々の生活の中に見出されるということだ。そのような変形が必ずしも悪いとか間違っているというつもりはない。しかし日本の場合、どうして対象がそのような子供でなければならないのかということだ。何でもよいといっても、もっと他にいろいろとあると思うのである。それがサッカーのW杯であるならまだしも、中学生の子供相手ということなら、まるで日本人はロリコン集団と見做されかねないではないか。確かに欧米などでも音楽のロックは若者にとっては反抗精神の象徴のようなものだから、コンサートの熱狂が暴動や暴走に発展することもあるであろう。しかし未だ身体の出来ていない子供の歌や踊りにマスゲームのような反応を示したりすることは、日本や近隣のアジア以外では考え難い光景なのではないのか。最近、クイーンの伝記映画である『ボヘミアン・ラプソディー』を見て感じたが、世界の標準ではやはりバンドやシンガーなどの類まれなる才能や個性に反応して熱狂的な応援や反響が巻き起こるものである。それがクイーンでなくてエリック・クラプトンであっても同じことである。そこには見る者(大衆)の精神のある種の自立性と独立がある。ところが日本の特徴は恥ずかしいことではあるが、何でもよいという以前に、用意され誂えられるように作られた偶像に反応して、見事に熱狂を示しているところにある。これでは本当に自分の物語(カルマ)から逃避しているのと同じであるように思えてならない。そしてそういう精神性の延長上に戦争が発生するのであればそれは確かに恐ろしいことではある。まだ一度も見たことがないので決めつけるようなことを言ってはいけないのかも知れないが、恐らくは韓国のアイドルグループを熱烈に応援したり支持する日本のファンの心理というものも同じであろうという気がする。主体的に応援しているというよりも、与えられているものにモルモットのように反応しているように私には見える。そういう人々は本当に音楽やアーティストのパフォーマンスを心から愛していると言えるのであろうか。
ジョギング前に少女たちのミニコンサートを整理券も取らずに袖から見ていた私に気付いたスタッフが何事か注意するために私の方にやってきた。私はそのスタッフが言葉を発する前に、その小さな会場に集う人々とスタッフに動物の群れを見るような蔑視を投げかけつつ無言でその場を立ち去ったのであった。