龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

M-1を見て感ずる日本の精神性

語り得ぬことについては、沈黙しなければならないと黙っている私が、こういう話題で語りを再開させるのもどうかとは思うが、また「大阪人」だから漫才について批評しなければならないという訳でもないが、昨日のM-1グランプリを見て、これだけは言っておかなければならないと思うことがあるので、言わせてもらう。今から述べることは、漫才とはこうあるべきだとか、漫才の魅力や面白さとは何なのかということではなくて、TVの電波とは本質的に何を視聴者に伝播させて、その生理的な影響力がいかなる性質のものであるかということについての一考察である。そういう基本的なことにつての認識が、TV業界やマスコミ全体の関係者において欠落しているように感じられる。そしてその業界関係者と一般的な国民の間の温度差というものが、近年の若者のTV離れの大きな要因になっているように考えられる。TV離れだけではなくて、政治離れも結局は同根である。最近の若者はTVを見ない。私もあまり見ないが、20歳の息子はもっと見ない。大学生になって独り暮らしを始め、部屋に入れる生活用品を買い取り揃えていた時には、TVは見ないから要らないと言っていたほどである。さすがにそれでは災害の時などの緊急情報や何かで困るであろうと無理に持たせたものである。昨日のM-1も私は全部見たが、恐らく息子は見ていないであろうし、もしかすれば今まで一度も見たことがない可能性すらある。TVやマスコミの人間は、スポンサーに対する手前があるので、万人がTVを見ていることを前提としているが、実際にはそうではない。熱心に見ている人間は一定数いるであろうが、私の息子のようにほとんど見ないか、見るとしても一時的にちらっとしか見ない層の割合が確実に増えているのだと考えられる。特に若者の年齢層においてである。それでは一体、今の若者はTVの何を倦厭しているのかということである。中高年層も同じなのかも知れないが、私に言わせれば中高年齢層は小さな頃からの生活体験でTVに洗脳されているので、完全に捨て去る態度も取れないのである。そういうTV離れの原因が、毎年、高視聴率を誇るM-1から皮肉にも読み取れるような気がするということである。ここまで述べれば、勘の鋭い人にはわかるかも知れないが、TVの電波は、出演者やタレントのテンションの高さというものをも情報として伝えるのであろうが、ほとんどの視聴者はそれ自体を面白いとか、快い刺激、作用要因としては受け取れないのである。単に喧しいばかりであるばかりか、あたかも鶏の首を絞めたときに発せられる声であるかのようなハイテンションのパフォーマンスは、TV電波を通じて受け取る時には、平穏な日常生活の侵害ですらあると言える。TVとはそういうものなのである。直に舞台を見に行っている人間は、そのような演者のハイテンションを心地よいものと受け取って、面白いと感ずるのかも知れない。それはそういう波長の臨場感の中に自ら突入して、その渦に没入しているからそう感じるのであって、大多数の視聴者はTVのそのような要素を有難いとか、面白いとは思わないものである。白けているというのでもないと思う。本当に面白いものや魅力的なものまでは否定しないが、結局、死に物狂いのハイテンションや一か八かの必死さはそのタレントなり演者のためのものであって、そのような余裕のないパフォーマンスを電波を通じて受け取りたくない、見たくないと思う感覚の方が、私は健全だと思う。私のような中高年齢層はそういった性質のものをも「仕方ない」性質のものとして、我慢して受け入れようとするが、今の若者層は、ある種、正直というか健全で、我慢してまで見ようとはしないのである。

M-1を見ているとそういうことが象徴的によくわかる。伝える側と、受け取る側の生理感覚的なギャップというか溝みたいなものが浮き彫りになってしまう。伝える側の視点、感覚では絶品的に面白くても、受け取る方にとってみれば時には苦痛でしかないという距離感をTV電波は増幅させても、解消させはしないということである。M-1の審査員たちが、揃って辞めたいというのもそういうことなのであろうと思われる。これは漫才だけに限った話ではない。要するにTV電波が国民に伝播させようとしているものは何なのかということである。若者の方が肉体の免疫力や自律神経のバランスが優れているのでそういうことが、言葉にする以前の感覚としてわかっているのであろう。TV電波が伝播し得るものとは、ハイテンションを含めたその時、その場の空気感、雰囲気、勢い、気配といったものの総合作用である。一か八かの捨て身のハイテンションは、たとえそこに心の底から本当に笑えるだけの中身がなくとも、電波を受容する者にとっては、それを面白いと思わなければならない、笑わなければならないという強制力のような性質のものとなって伸し掛かるのである。お笑いだけではない。政治も同じである。そこに実質的に何の中身や確かさがなくとも、TVニュースが伝える雰囲気や盛り上がり、炎上などで政治家や政策などの支持が瞬時に集まったり、いきなり反転して凋落したりする。そこにおいては中身や実質よりも、雰囲気や趨勢の方にこそより価値があるという概念が集団的に共有されているのである。もっと卑俗な例で言えば、タレントの不倫報道も同じだと言える。不倫が悪だと言えば、確かに悪なのかも知れないが、マスコミが伝える不倫は我々一般人の世界とは別次元の倫理観によるものである。不倫の悪質性を伝えているのではなくて、その不倫行為を社会全体で叩かなければならないという正義の雰囲気を押し付けているだけのことである。辛辣すぎる意見かも知れないが、それは卓越した話芸やネタの中身がなくとも、漫才師がもたらすハイテンションの渦の中での同調、共鳴した笑いとどれほどの違いがあると言うのであろうか。何の差もないではないのか。少なくとも不倫については、一般社会においては当事者間で深刻な問題にはなっても、たとえば地域社会の中で、町内会の回覧板に載せられて村八分のように弾劾されることではあり得ない。普通の生活感覚の中では、犯罪行為でもなければ何が善で、何が悪かとそう簡単に瞬時に決めつけられるものではないのである。タレントの不倫はスポンサーやTV局に迷惑をかけるから被害が甚大だとは言うが、そのようなことは我々一般人には何の関係もないことである。同じ渦の中に巻き込むなと言いたい。

つまり政治とTVとかお笑いなどというものは、直接的に同じだとは言わないが、日本においては同質、同類なのである。気の毒なので名前は出さないが、政治家で次世代の総理大臣候補として自民党内で大切に守られている大臣などは、父親の口調を真似しているのか遺伝的に似ているだけなのかはわからないが、単にその場の空気感で適当に言辞を弄しているだけの下手な漫才師以上に中身の空疎な政治家なのだが、妙に人気があったりする。それも勢いだけのハイテンション漫才と同じで、中高年層に絶大な人気があったり、仕方ないものと受け入れられたりしているのかも知れないが、同世代の若者たちには心の底で馬鹿にされているのではないかと思ったりもする。日本はそういう国なのである。そういう国の「そういう」がどういうものなのか、簡単に説明することは難しいが、またこれは語るべきでないことかも知れないが、別に言ったからといって逮捕されることもないであろうから敢えて言うが、日本の政治やマスコミを外殻で限定付けているものが何かと追求すれば、それはやはり日本の「天皇制」に行き着くのである。天皇制の機能とは何かといえば、日本人や日本に住む全ての人間が、全体的に緩やかに統制された情報の中で、同じものを見て面白いと笑い、同じ不祥事や事件を知って許せないと怒り、災難や事故などで不幸な状況に陥っている人々を見て同情を感じて心を通い合わせていくということ、TVや新聞などはそのための、つまりは天皇制を維持していくための装置なのである。日本の国民はNHKを見なければならない、という法律はないが、受信料を支払わなければならないとされている理由も本当は、天皇制を深く関係していることは明らかだと思われるが、意外と政治家にその認識や自覚が薄かったりもする。それは天皇制云々ではなくて単なる政治の劣化の問題であろうが、結局、何が言いたいかと言えば、その日本的な緩やかな統制の中では、必ずしも中身があるからと尊重されたり、守られたりする理由にはならなくて、むしろ反対に真実や真理の開陳は、そのつながりを阻害する悪因として危険視されたり、遠ざけられるべきものとして位置づけられることが多いのではないかということである。嘘やごまかし、真実への軽視があったとしても、それらを包摂して正当化する原理があるなら、その方向性に価値を認めてかじ取りをしていくということが、日本の「そういう」在り様なのである。中身がなくても、何の解決にもつながらなくても、それらしいことを言い続けて日本の日本的な心の連帯を保ち続けることが、ある意味では日本の政治や報道の役割なのである。そしてそういう政治家こそが日本の総理大臣に相応しいという道理になる。繰り返すが、お笑いも、不倫報道も政治の在り方も日本の原理の中で組み込まれている。私は日本社会に貢献したいという気持ちも一方では強いが、もう一方で日本の天皇制に淵源する日本的な心のつながりを破壊したくないという気持ちもある。だから黙ってしまうのだ。M-1の話から随分と飛躍してしまったが、日本とはどういう国なのかということを一人でも多くの日本人に理解を深めてもらいたいと願う。そういう気持ちがあるのであれば、漫才であれ何であれ、見るほどに日本が見えてくるということである。最後に誤解のないように断っておくが、今回のM-1の結果や演者の芸風を批判するつもりはない。色々と思うところはあるが、優勝したお笑いコンビのマジカルラブリー他、どれも皆、喧しいほどに面白かった。

語り得ぬものと言葉について

何億光年 輝く星にも 寿命があると 教えてくれたのは あなたでした。

夏休みは終わった。人生そのものが、夏休みのようなものであるが。私は生きている。それゆえに夏休みはまだ継続しているとも言えるが、もう何も言いたくはない。何か言ったところで、何がどうなるというのか。

「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。」それを私の心情的に言い換えると、変わり得ぬことについても、言及すべきではない、という諦めと戒めが入り混じった警句となる。日本は、変わり得ない国である。少なくとも自律的には。だから全ての国民はそれを深く理解して、行儀よく沈黙を保っているというのに、一人であれこれと他の人々がわかっていても敢えて言及しないことを得意気に言い立てることは、恥かしい振る舞いである。人間、恥を知ると黙ってしまうものである。本当のことや、大切なことは口にすべきではないのである。その全体的な諦観が日本に一つの静かな秩序をもたらす。そしてそこにこそ、日本人の国民性や品性が存在するのかも知れない。人々が生活の中で言っていることは、言わされていることである。思っていることは、思わされていることである。果たしてそれが、間違っていることなのであろうか。これまでの私はそれが間違っていると思っていたが、そう思い込んでいた私が間違っていたのかも知れない。そもそも人間の人生とはそういうものではなかろうか。そのような全体性を敵に回して闘ったところで、何の利益にもならないだけではなくて、一片の幸福感や充足も得られないということだ。ただ虚しいだけである。私の人生とは、その虚しさを体感するために与えられたひと時の休暇であったのであろうか。

まあ別に何だって良いのだけれど、そういうことで何も言いたくはない。でも生きている限り呼吸をするように、言葉を吐き出さねばならない。私の言葉は、常に沈黙と諦めの影を深く帯びている。このような精神性を人は、悲観的と呼ぶのであろうか。私自身は、自分が悲観的な人間だとは思ってはいない。別に落ち込んでいる訳でも、ふさぎ込んでいる訳でもなくて、もちろんその時々の状況で疲れていることは多いが、そもそも私には自分が悲観的とか楽観的という状態の区分そのものがなくて、これが私にとっては常態とでもいうか、ニュートラルなのである。虚しくはあるけれど、一方では精神的に満ち足りていて、充実している面もあるので鬱などにはならない。自分が経験したことがないので、よくはわからないが鬱の原因であるとか機序というものは、変化の落差によって生じるのであろうと思っている。よって私のように、人生が虚しさで一定しているとそこには落差がなくて、ある意味で安定しているので鬱にはならないし、自分で言うのは何だけれど健全なのだ。死というものを哲学的、観念的に考えることは多いけれど、私のように日常的に死を意識して、考えるようなタイプの人間は自殺することにはならない。なぜなら逆説的ではあるが日常的に死を考えたり、意識することによって生を無意識に充実させているからであろうと思われる。自殺する人間は、ある日、ある瞬間に突如として死の衝動に囚われて、その世界に引きずり込まれるのではないかと考えられる。だから要するに悲観的であれ、楽観的であれ自分にとってのニュートラルな状態が一つの個性なのであって、他者や社会的な風潮と比較して、ああでなければならないとか、こうでなければならないなどというような標準などなくて、自分が自分の本来の常態から乖離しないように気をつけることが生きるということなのではなかろうかと思う。ああ、またこのように言葉を弄することによって、語り得ぬことを語ろうとする不遜な態度によって、自分が自分自身から離れていきそうになる。言葉は常に自分自身を騙そうとする。私の無意識の企みを正当化し、美化しようとまでする。だから沈黙というニュートラルな状態に私を引き戻さねばならない。では、その本体の「私」とは一体何なのであろうか。恐らくは私というものに実質や中身はない。私とは本質的には、肉体でもなければ魂でもない。私とは、私が見るところの風景や、社会や世界に対して感じられる印象の固有性なのではなかろうか。思考や意識、想念が形成する他者や世界への印象が私そのものであって、人生とはもつれた細い糸を解すようにその固有の関連性を探っていくことではなかろうか。語り得ぬ何かなのだ。人間が嘘吐きなのではなくて、(平気で嘘をつく人間はあまりにも多いが)、言葉そのものが嘘というメカニズムを深く蔵しているのである。しかし人間は肉体を否定できないように、言葉を捨て去ることもできない。だから生きている限り常に沈黙に立ち返って、自らの内的な印象や言葉の質を更新してゆく努力が必要なのであろう。私は常に考えている。他者とは世界とは一体何なのであろうか。そこに本当に存在しているのか。

あなたの燃える手、あなたの口づけ。

暴走するフェミニズム

差別や貧困に問題があることは当然であるし、否定すべきことではないが、それでもタレントの岡村君に対する藤田孝典氏の発言内容には私は疑問を感じるし、またその糾弾姿勢にはある種の危険性が潜んでいるような気もする。具体的には藤田氏と大竹まことさんのラジオの対談を読んで、その思いを強くしたものである。

https://radsum.com/archives/14277

藤田氏はそこで、岡村の発言には擁護のしようがないから、行動が求められるとして、貧困で生活困窮している人々や、女性の支援活動、夜の仕事をしている人などの生活支援をしている団体の声を聞いたり、活動に参加したり、寄付するようなことを期待すると言っているのである。何を岡村に期待するかは藤田氏の勝手なのかも知れないが、率直に言って私はその発言を見て、お前は裁判官なのかという憤りを強く感じたのである。それではまるで岡村が犯罪者の扱いではないか。裁判官が犯罪者に対して、更生の道を歩ませるために奉仕活動を進めているようである。そこには社会に対して民間人が一つの問題提起をするという謙虚さがまるで感じ取れない。謙虚さどころか、ある特定の状況において(この場合はフェミニズム的な断罪)、異論を許さずに一つの画一的な理念やイデオロギーをあてはめて、その型に合わない対象者を問答無用で反省させたり、処罰や排除をすることが当然だと考える姿勢は、ファシズムの源流であるとさえ言えるのではないのか。私は個人的には岡村の風俗発言よりも藤田氏のその強圧的な姿勢の方が危険性があり、憂慮されるものだと思う。仮に岡村の発言の問題性が大きいのだとしても、政治家でもあるまいし、単なる芸人の不用意な失言はそれ以上でもそれ以下でもないものであって、本人がその間違いに気付いて一旦謝罪すればそれで済むべき話しのはずである。それを社会に話題提起しただけの人間が、罪人に対するかのように奉仕活動や寄付を求めるとは、一体、何様のつもりなのかということだ。タレントの影響力は大きいといっても岡村の出演しているANNは、関東の特定地域でのみ視聴できるそれも深夜番組で、ごく一部の限られたリスナーだけが知っているような内容を、全国的な問題として周知せしめたのは藤田氏自身ではないのか。もちろん黙って聞き流せばよいというものでもないのかも知れないが、政治家の発言であればともかくも、お笑いタレントの悪意のないうっかりミス的な失言をここまで大きく政治問題化させることは、わたしには善意とか正義というよりもあざとさの印象を強く受けてしまうものである。それから風俗と女性の貧困や搾取について、藤田氏は自分の一面的な見方や問題意識に過ぎない見解を全体化させて、そこから岡村発言の問題の大きさを認識しているようにも感じられる。今回のコロナ禍や2011年の東日本大震災の時も同様であるが、経済困窮によって生活できなくなったり、学費や奨学金の返済が出来なくなって風俗に流れ込んでくる女性も確かに存在するのかも知れない。それを期待するような発言は許されないという意見は正論なのであろうが、全体のごく一部を突いている主張である。岡村に罪があるとすれば、それはその場に相応しくない不謹慎な発言をしてしまったというだけのことであり、まあ言ってみれば粛然と静まり返った葬式の場で大きな音のする屁をこいてしまったようなものであり、本来は一言謝れば済まされるべきことのはずである。しかし肝心の貧困は、たとえ岡村がその放屁の償いに奉仕活動や多少の寄付をしたところで解消されるようなことではなくてあくまでも政治の問題であるはずだ。それならどうして政治家でない岡村をここまで悪者に仕立て上げる追及をする必要性があるのかということだ。それから女性への性的な搾取ということに関しても、一つ断言できることは、どんなに経済的に困窮していようとも、風俗で働くという気持ちのない女性はそういう所で働くということは人身売買で売られるのでもなければ、まず有り得ないであろうということである。反対にそれほど金銭的に困窮している訳でなくとも、風俗で働くということに心理的な抵抗感のない女性も世の中にはたくさん存在しているのである。むしろそういう仕事が短期間でお金もたくさん稼げて、楽しいと感じる女性も多いであろうし、そういう感覚の女性が風俗業界に集まっていることは否定できない事実であろう。これは女性蔑視や女性の職業の選択肢の問題ではなくて、基本的には本人の意思によるものである。嘘だと思うのであれば、風俗の店に取材に行って風俗嬢に聞いて見ればよい。あなたがたは性的な搾取の被害者なのですが、そのことについてどのように感じていますかと。ほとんどの風俗嬢は、きょとんとして質問されている意味が飲み込めずに黙ってしまうであろう。自分の意思でこの仕事をしているのに、被害者だなんてそういう風に考えたこともないというのが彼女たちの本音であろう。要するに一口に女性と一括りにまとめても、そういう性的な意識は個人によって極端に言えば、天と地ほども違うのである。それを一つのイデオロギーにあてはめて、女性蔑視だ搾取だなどと言っても、それは単なる政治運動であり、パフォーマンスであって、現実の何も説明していないということだ。もうひとつ言えば、これも偏見だと言われるかも知れないが、風俗で働いている女性はお金にルーズであることが多いのだと思われる。ホストクラブにはまってしまって消費者金融から借金をしてしまったり、分不相応なブランドの服やバッグなどをたくさん買い集めて、お金に困り風俗に流れてくるようなタイプが大半なのではなかろうか。そういう女性たちも社会の経済や景気浮揚に貢献している訳だから第三者が否定したり、批判すべきではないのであろうが、被害者なのではなくて自業自得なのである。むしろ前回にも述べたようにそういう場所で多額の金をつぎ込んでしまう男の方が全体的な経済の視点で見れば、性的搾取の被害者だと見れるものである。藤田氏の発言は、岡村の不謹慎ではあっても大して罪のない失言を政治利用しているだけにしか私には見えない。はっきり言うが、日本のフェミニズムなどインチキで偽善でしかない。藤田氏のような論者が日本社会における一つの権威となり、検察官や裁判官のような断罪者としての使命感を行使しようとするのであれば、私は今後、日本のフェミニズムがいかにインチキの偽善であるかをワーワー言うのではなく、冷静に大衆の誰にでもわかり易い、かみ砕いた言葉で説明していくつもりだ。時間はいくらでもある。

くだらない正論を撒き散らすな

そもそも風俗の仕事に従事している女性を、性的搾取の「被害者」のように扱うことが間違っているのだよ。性的搾取という言葉自体が、よくもそんな手垢の付いた時代遅れの決めつけを、恥かしげもなくできるものだなと思う。確かに広義の大雑把な分類で見れば、「搾取」であるのかも知れないが、それを言うのであれば、資本主義社会の労働者は全て資本家に搾取されている訳であろう。風俗業界で働いている女性だけを特別扱いする必要性があるのか。ましてや被害者なのかということだ。そういうことを平然と発言する人間は特定のイデオロギーに偏り過ぎていて、世の中のことがよくわかっていないのだと思われる。性的な搾取という表現が適切なパターンとは、借金のかたに債権者に本人の意思とは無関係に強制的に売られてきて、その店から逃げ出せないように軟禁状態に置かれて働かされたり、どこかのプロダクションと契約させられてAVに出演させられるようなケースを言うものである。それが、性的搾取である。日本にあってもそのような人身売買に近いアンダーグラウンドな性の問題は、ないことはないであろうが、恐らくは全体のマーケットの1%にも満たないのではなかろうか。岡村君がラジオで発言していた風俗の女性たちは、今は確かにコロナの問題で生活が困窮してという特殊事情があるので誤解を生む社会背景があることを失念していた岡村君の責任はあるであろうが、基本的には自分たちの意思で、身売りされるような悲壮感などかけらもなく(売られた訳ではないので当然のことだが)、むしろあっけらかんとして生き生きと働いているのではなかろうか。その仕事をやりたくてやっている訳ではないというなら、風俗嬢でなくても、健康食品のテレホンセールスや苦情受付係でも何でも同じではないか。どんな仕事でも誰かに雇われて働いている限りでは、時間や精神を拘束されて労働で得られた利益を資本家や経営者に搾取されているのだから、辛いものである。仕事という括りで見れば、風俗もそれ以外の労働も結局は同じであろう。若い女性が特別なスキルや経験がある訳でもないのに、仮に一日で数万円、一カ月で100万もの金を得るのであれば、そしてそこに通う男性が1時間もないような短い時間内に、何の男女の情愛も感じられないような無味乾燥な機械的な作業で精子を放出させられて、1万円も2万円も支払うのであれば、どう考えても性的に搾取されているのは男の方ではないか。だから私は日本の全ての男性にそんな所にわざわざ搾取されに行くなと言いたいのであり、自分の意思で風俗で働いているに過ぎない女性を被害者のように論じる偽善的な姿勢に腹が立つと同時にその浅薄な倫理感がおかしくて笑ってしまうのである。風俗産業で本当に女性の意思に反した人権蹂躙の身売りに近いことが一般的に横行しているのであれば、それは行政や法律の問題であるが、そういう状態が放置されていることは考え難いものであるから、単に労使の合意の上での職業選択の自由ということであって、岡村君の発言も本質的な問題性があるとは言えないものである。女性の同意があっても金のやり取りがある状況で性行為が行われることが許されないというのであれば、そもそも結婚という制度自体が何よりも真っ先に否定されるべきではないのか。愛の有無など結婚制度とは何の関係もない話しではないか。婚姻届を役所に提出に行った時に、役人から「そこに愛はあるのか」などとサラ金のCMのような確認をされるであろうか。まあそういうことを言うと語弊や誤解があるかも知れないし、私は何も風俗と結婚を男性側の観点から同一視しようなどというつもりは毛頭ない。そうではなくて、世の中にはくだらない皮相的な正論を主張する人間があまりにも多過ぎるからそういう極論になるということだ。それに私は、風俗を女性蔑視や搾取の問題としてではなく、大便や小便を排泄する性の便所のように利用することは自らの品位を貶めることになるだけだから自分のためにもやめた方がいいという意見である。風俗はパチンコと同じである。パチンコは人間をダメにするけれど、風俗は男をダメにする。言い換えれば、パチンコは人間劣化で、風俗は男性劣化の社会問題である。君子危うきにではないが、女性も男性も自分の精神性を貶めるような場所に行くべきではない。まあそういう私も過去一度も行ったことはないとは言わないが、そういうことが理解できる年齢になった段階で、行こうとしても足が向かわなくなる。そういうものだと思う。

タレントの社会性と存在価値について

別に何だっていいのだけど、芸人の岡村君がラジオで風俗嬢に関する問題発言をして、世間から激しく叩かれていた状況で、一時はタレント生命が危ぶまれるのではないかと、このまま批判が継続、拡大していけば、出演番組を強制的に自粛させられるか、岡村君がまた精神的におかしくなってタレント活動を休業しなければならないのではないかと思われるような危機的な雰囲気の時に、相方の矢部君が突然、岡村君出演のラジオ番組スタジオにやってきて、公開説教をしたのだという。その説教の内容が、私は放送を聞いていた訳ではないので細かなところはわからないが、「結婚して、風景を変えろ」というようなことだったらしいのだが、私はその一件を知って、矢部君のことを見直したのであった。説教の内容に感心したからではない。そうではなくて、矢部君がどこまで意識的に計算してやったのかは不明だが、そのような内容のちょっと時代錯誤の趣きがある結婚観や女性観のアドバイスなり説教を居丈高にすると、世間の批判の矛先が自分の方にも向ってくることをお笑いやTVを職業にしている人間であれば、ビビッドに本能的にわかっていたであろうし、ある程度は覚悟していたとも思えるのである。それで結果的に、岡村君の精神が日本全国からの批判の一斉砲火を浴びて崩壊していく寸前で、矢部君がその批判の一部を分散させて自ら引き受けることで、岡村君は救われたのである。実際に矢部君の岡村君への発言内容が批判を受けるようになって以降は、自然消滅のような形で岡村君の風俗嬢発言についての女性蔑視問題は、収束に向かったのであった。そういうやり方はなかなか出来るものではないと思う。コンビとしての自分自身へのイメージ悪化を懸念したパフォーマンスだとしても、スマートだし、見事であるとも言える。だからそういう判断の出来る矢部君は、言うまでもないことだが大人なのだ。それでは岡村君にそういう配慮なり、芸当ができるかと言えば、それは無理である。というよりもそんな配慮や判断が出来る人間であれば、そもそもあのような発言にはならない。岡村君は49歳ではあるが、中身は子供なのだ。しかしである。話しはそれで終わりではない。それでは岡村君と矢部君はどちらがお笑いタレントとして、面白いかということになれば、比べようもなく岡村君なのだ。矢部君はこう言っては何だが、面白いか面白くないかという価値尺度をすら当て嵌めることが相応しくないような人種であるようにも私には見える。芸人というよりは常識人なのだ。TVに出続けているのは見た目にハンサムで、爽やかで、差し障りのない無難な喋りが出来るからだと思う。でも面白くはない。岡村君は、愛嬌があって可愛らしいし、面白い。これは何もどちらを持ち上げて、どちらを貶すということで言っているのではなくて、また何が正しくて、どちらが間違っているのかということでもなくて、純粋に見て感じられる印象を述べているのだ。矢部君は岡村君のことを社会性がないと言っていたようだが、社会性の欠如が、独自性のある面白さを生み出す土台なり才能になっているということは否定できない事実であろう。岡村君は社会性がないから面白いのである。もちろんそれが、反社会的な発言や女性蔑視が容認されることを意味しないにせよである。何が言いたいかと言えば、失言を批判したり、注意すること自体は当人のためにも良いのであろうが、芸人に立派な社会性や公共性を要求しても何も面白くはないということだ。世間からずれているから面白いのである。だからこれは岡村君の話しではないが、社会性があるのかないのかよくわからないような、お笑いタレントや芸能人の政治的なコメントを聞かされても面白くも何ともないのである。面白くないだけではなくて、芸人としての本質的な社会性のずれを、知名度をフルに活用して社会性に転化させているようでもあり危険だとも私は思うものである。もちろん言論の自由は、芸人やタレントを排除するものではないので、それぞれが思う所を述べればよいのであろうが、お笑いタレントであれば漫才やコントに、俳優であれば演技に、歌手であれば歌で存在感を発揮して活躍すればよいのであって、有名人の政治的な発言はネット空間においては配信する企業においては常に広告効果と結びついているということと、発言するタレントにしてみれば大衆感覚に埋没する意見や主張よりも、少数意見を堂々と開陳する方が自らの存在感を市場の中で増すことが出来るという点において、度を過ぎれば民主主義の破壊にしかならないということはもっと指摘されるべきではないのか。100万人が反対している事案であっても、一人の有名人が敢然と勇ましく賛成すれば、TVやネットの中においては10万人ぐらいが賛成しているかの世論構成の気配を醸成してしまうであろう。そしてその僅か一人のタレントの、単に捻くれているだけの社会性のない、そして利己的な意見が、10万人の人間を代表しているかのような錬金術的な価値なり正義を社会に付与してしまうものである。そのような危険性は全く無頓着に放置されているのに、政治的な発言をほとんどしない岡村君の不用意な問題発言が、政治的に激しいバッシングにあって人格まで否定されるような有り様は、私は日本の社会なり言論が適正なバランスを欠いていて、偏狭になり過ぎていることの結果だと思えるのである。厳しいことを言うようだが、今の時代のタレントのダメさ加減は誰もが声高に何事かを主張しなければならないと、そうやって目立たなければ存在価値がなくなってしまうと信じ込んでいるところにあるのではなかろうか。私はそうではないと思う。面白い人間は何も主張しなくても面白いし、魅力的なのである。むしろ黙っている方が、そこに本質的な何かが立ち現れて、引き込まれる。無声映画チャップリンであるとか、バスター・キートンなどを見ているとそういうことがよくわかる。岡村君だってチャップリンほどではないにせよ、黙っていても言葉には表現できない面白さが滲み出ている。そういうものが本来、芸人や役者などの才能の正体だと思うのである。常に何事かを主張しようと駆り立てられているタレントは、その主張によって自らの根本的な存在感と才能の無さを自己証明しているようなものである。

言葉狩りしかない日本の言論

まあ、あれやね。あれと言うのは、今の時代は女性蔑視とか女性差別の発言は厳しく非難、弾劾されるということで、それはそれで歴史の長い時間のスパンで見れば、一つの反動であり、調整なのだから仕方のない面もあるのであろうが、現在の日本における風潮のように、あまりにそればかりに特化し過ぎて、それ以外の全体的な社会背景なり、個別の生活事情なり、また根本的な対立、相克の要因といったものが埋没してしまっているのでは、結局はそういう弾劾は差別撤廃や人権擁護のための運動というよりは、それ自体が社会に不都合な真実を覆い隠したり、国民の意識をそちらに誘導させて、一部の特権階級の利権を維持するための社会操作にしかなっていないということなのであろう。などと小難しい理屈をいくら述べた所で、ほとんどの大衆は理解できないであろうし、話しについてこれないであろうことはわかった上で言っているのだが、というよりも理解できる能力がある人間だけが、自分なりに私の言っていることを消化してくれて考えてもらえばよいという気持ちも強いが、敢えて誰にもわかりやすい言葉で説明すれば、政治家や有名人などの失言や暴言に対する言葉狩りというものは、万人に対して親近感が感じられ易いものであるゆえに、国民を一つの言論と言う渦の中に落とし込む上で、つまりはその渦の外側に存在する矛盾や嘘や不都合を見させないように、意識の焦点が合わないようにぼやけさせるためには、非常に有効であるということなのである。それで結局、日本の政治や民主主義や言論の自由というものがやっていることは、国会の論戦においてもTVにしても、ネット空間の書き込みにおいても、つまるところは表面的な言葉狩りでしかないのである。そこには本当の人間的な思考であるとか、精神といったものが枯渇している。極論すれば、今や日本人は、言葉狩りで誰かを厳しく攻撃するためだけに生きているといっても過言ではないほどである。しかし一方で、確かに部分(失言)は全体(人格)を映し出しているのである。全体の中に部分があるように、部分の一つ一つにも宇宙のような全体性が蔵されているのだ。そういうのをなんて言うんだったっけ。忘れたけど。だから部分という失言で全体の人間性や能力を推し量り、否定する行為は一つの方法論とすれば決して間違ってはいないであろうが、そればかりに集中して他が見えなくなってしまうという状態が非常に危険であるだけでなく、結果的に生産性のない不毛な政治行為に過ぎないということを日本の全ての国民はよく肝に銘ずる必要性があると思われる。

ということを弁えてもらった上で、一つの具体例として芸人の岡村君のラジオでの発言を考えたいと思う。風俗嬢に関する発言は、岡村君が自ら反省して、謝罪していたように確かに女性蔑視であるとか、男尊女卑的などと批判されても仕方のないものなのかも知れないが、果たして本質的にそういう問題、いやそれだけの問題なのであろうか。近視眼的に部分を見ることから離れて、全体を俯瞰しなければならない。岡村君は、私は知らないが、以前からそのような風俗ネタを話していたようであるが、どうして今回に限り、問題が大きくなったのか。当然、コロナ禍による生活苦というものが風俗嬢への転身理由になっているということと、それを期待するような不用意な発言が地雷を踏んでしまって木端微塵になってしまったということであろうが、そもそも今だけでなくいつの時代にあっても風俗という業界は、元々そういうものなのではないのか。浪費や派手な生活で借金などしていなくとも、真面目に生活していても、たとえば親が破産して学費が払えなくなり風俗業界に流れ込んでくる若い女の子がたくさんいるという話しは以前からあったことであり、事実そうなのであろうと思われる。もちろん今はその貧困の規模がこれまでとは比較にならないほど「普通」の人々の隅々にまで拡大してきているので、岡村君の呑気な発言が世間の激しい怒りを惹起させたことは当然であり、本人の責任なのであろうが、これは一歩離れて考えれば女性蔑視や男尊女卑の問題ではないはずである。今日も取引先の人と話しをして耳にしたことであるが、もうすでに日本は生活苦からかなり治安が悪くなってきているらしい。データや統計に基づくものではないので正確なところはわからないが、巷では泥棒や強盗が増えているということのようだ。むべなるべしである。そうならざるを得ないであろう。何も私は風俗嬢を泥棒や強盗と一緒だと言っているのではない。そういう言葉狩り的な決めつけが世の中をおかしくしているとも言える。私が言いたいことは意図的かどうかはともかくとして日本の言論は物事を人権擁護や差別撤廃などの類型化された、大衆が関心を持ちやすい話題に誘導することによってその背後に空のように茫漠と広がっているより深刻で重大な問題を認識させないように、自律的に取捨選別され動いていくということだ。岡村君の問題発言騒動はそれ自体がスケープゴートになって、その背後の治安悪化の兆候を隠す役割を果たしているように私には見える。もちろんそうは言っても、それゆえにすぐに経済活動を本格的に再開させよなどと言うつもりはまったくない。今回のコロナウイルスに対する中途半端な対処は、事態を悪化させるだけである。しかし一方で日本の全般的な貧困は、日本人の性質上、暴動は起きないであろうが、これが日本とは考えられないような治安の悪化を生み出していくことであろう。また当然、自殺者数も最近は減って来ていたようであるが、また確実に増加に転じることであろう。そういう全体性をどのように国民が考え判断して、政治に働きかけていくかということが急務なのではないのか。しかし腐った政治構造は与党であれ、野党であれそのような全体意識を国民に持って欲しくはないのである。国民が賢くなれば、政治家の存在価値がなくなってしまうからだ。もうすでに国会議員の価値など何もないが。だから全ては差別や人権などの部分的な話題、批判に、それらの言葉狩りに巧妙に摩り替えられてゆくのである。最後に岡村君に男として老婆心で忠告すれば、49歳にもなって風俗に行くな。法律に年齢制限はないが、遅くとも10年前には卒業しておかないとダメだよ。どうしても行きたいということであれば、もっと高級なところに行けよ。芸能人や政治家ご用達のVIP専門店で、1回遊びに行けば20万円とか30万円かかるようなところだよ。秘密結社みたいな。それぐらいの金は持っているだろうに。大衆が行くような普通の所に行くから、そういう発想になって悲惨なことになるんだよ。超高級店で気前よく、男前に金を使っているのであれば、TVはともかくラジオでそういう話しをしても誰も批判しないし、また批判できないよ。庶民は行きたくてもそういうところには行けないからね。妬みになるようなことは言えないのだ。また女性も意外とそういうことであれば好感をもたれるかどうかは別として、嫌悪感は持たないものだと思うよ。何のための金なのかということだ。おそらくは岡村君は大人としての金の使い方がわかっていない。そういうところが岡村君の人気の秘訣であり、またダメなところなんだろうな。

地方自治とパチンコ営業について

パチンコ店への自粛要請の結果については、正直に言って、私は意外だったけどね。従わない店がもっとたくさんあると思っていた。ところが大阪では、当初は6店舗の営業継続で、店名を公表されて尚、未だに頑張っている店が3店舗でしょ。大阪に何軒のパチンコ店が存在するのか知らないが、ほとんどの恐らくは100%近い店が、知事の要請を素直に受け入れているということで、私はパチンコ屋の経営者は、反社会的というと語弊があるかも知れないが、反権力的な敵愾心をメラメラと燃やしながら、庶民から金をとことん巻き上げて、客が破産しようが自殺しようがわしゃ知らんみたいな調子で日々商売に勤しんでいるであろうから、半分とまではいかなくとも全体の3割ぐらいは要請を無視するのではないかと漠然と予想していたのだが。そしてその3割の経営者は、たとえ自分の店がクラスターの発生源になろうが、従業員や客がコロナに感染して重体になろうが、死のうともあまり心を痛めないような、そんなことよりも一日数百万円から1千万円もの売り上げだけに守るべきべき価値があると見做す、根性の座った立派な経営者だと考えていたのである。しかし実際にはそうではなかった訳で、意外とパチンコ屋の経営者という人種は、良識的と言うのか、社会との折り合いを図りながら商売を考えているのだなと、そういう風に思った次第である。しかしどうなのだろうか。それはそれで考え物のような気もするのである。パチンコと言うギャンブルか娯楽かわからないようなグレーゾーン(と言うよりも実態は明らかにギャンブルであるが)の一大産業が、日本においては完全に社会化されてしまっていて、社会全体の良識や大衆の道徳感覚に深く浸透してしまっている訳だ。私が住んでいる場所の近くにあるパチンコ店も、数日前に通り掛かりに見た所、店の前に休業の看板が立てられていたが、そこには「大阪で一丸となってコロナの脅威に立ち向かおう」といったメッセージが書かれていて、まるでどこかのチャリティー番組の「愛は地球を救う」みたいだなと、そこに募金箱でも置かれていようものなら馬鹿は金を入れかねないなとも思ったが、そんなことをわざわざパチンコ屋に言われたくないわという気分に、性格が捻くれているせいか私はなるのである。果たしてこれは偏見だと言えるであろうか。むしろ私に言わせれば、お前らみたいなパチンコに依存するような程度の低い人間どもは、元々社会的な生存価値が低いのだから自己破産するなりコロナに掛かるなりした方が、社会階層区分がはっきりして都合が良いのだと、我々パチンコ経営者が億万長者で有り続けることさえ出来れば、世の中が無茶苦茶になろうと、国が滅びようとそんなことはどうでもよいのだといったメッセージを発してくれた方が、私には痛快であるし、好感が持てるとは言わないが、ある面では気分がよい。私は正直な人間が好きなのである。反対に嘘つきや偽善者は嫌いだ。だから政治家は嫌いである。とにかくパチンコ屋が、政治やマスコミのように偽善で社会の上層に君臨することの方が私には空恐ろしい。なぜなら本来の有るべき社会とグレーゾーン集団の対立図式が雲散霧消してしまうからだ。ということで未だに大阪で営業しているパチンコ店は、私の個人的な感覚ではあるが、本物、生粋のパチンコ屋であると言える。もちろん単に経営内容が悪くて、自転車操業の状態ゆえに休業したくとも出来ない可能性もあるだろうし、その辺のところはよくはわからないので一概には言えないが。いずれにせよパチンコは、そもそも中毒症の愛好者を死にまで追い込むビジネスなのだから、コロナごときで、コロナでなくてペストやエボラやサリンであろうとも休業すること自体が、本性に反していると言えるものである。しかし嘘がなくて、正直で本性に合っているからとその商売を我々市民的な立場で応援できるかどうかとなると、当然のことながら健康や生命が関わっていることであるから話しは別である。

パチンコのいわゆる三店方式のグレーゾーンについて、この機会に国が毅然として裁定を下し、禁止するなり規制するのであればよいが、そんな大胆な決断が出来る政治であれば日本国民はここまで苦労はしない。それにパチンコはこれまで数十年間にも亘って年間数十兆円にもなる巨大マーケットを形成してきた揺るぎない「既得権」というものが存在する。違法であれグレーゾーンであれ既得権というものは強いのである。なぜならこれまでの考え方では違法かどうかは国家権力が決定するものであって、既得権があるということは国家が合法のお墨付きを付与していることと同義であるからだ。警察ですらパチンコはギャンブルであることを頑なに否定し続けてきたのである。すなわち警察は国民に対して平然と嘘をつき続けてきたということだ。警察の嘘もパチンコの既得権を強固に守ってきたのであるが、今更のことであるが警察が嘘をついて良いものであろうか。パチンコがギャンブルでないと言う嘘が許されるのであれば、取り調べにおける自白強要や調書の改竄で冤罪が発生することは必然なのである。ということでパチンコ業界に絡む広範で根深い既得権と、日本の法治国家としての正しい在り方というものを天秤に掛けるように考量した時に、この問題は国や警察の掌握から切り離すべきだと私は思うのだ。ではどうすべきかと言えば、大阪都構想ではないが、地方独自で必要性があると認めた知事は住民投票を実施して決めるべきだと私は考える。パチンコがその地域に必要かどうかは、国家や警察が上から国民に押し付けるものではなくて、住民そのものがその適法性も含めて直接民主主義的に判断すべきことではないのか。たとえば仮に大阪で否決されても、奈良や京都で許可されているのであれば、パチンコ店にとっても愛好者にとっても許可された近隣の地方で営業し、遊べば良いだけのことであり、現在の政治の利権や不正による許認可と比較すれば、よほど健全である。またその地方の住民が民主主義的に決定した採決を守るということは、否決の場合だけでなく反対に可決された場合は、パチンコ店はその地域において、これまでとは違って社会的に健全でクリーンな存在に生まれ変われるのであるから、双方にとって文句がないはずであろう。パチンコの問題こそ国や警察は住民投票で国民に判断を委ね、その決定に従うべきなのである。そうであろう、何か文句があるか。自粛要請を無視するパチンコ店名の公表が見せしめで行為であるとか、営業する自由と権利を侵害しているとか、そういう程度の低い議論のための議論をしている場合ではない。自分たちのことは自分たちで決める。それが民主政治の基本であり、そこを離れて行われる議論などエゴと感情の衝突だけで何の意味もないということだ。