龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

無能者のつぶやき

忙しいなあ。ふらふらするわ。忙しいのも陰謀である。なぜなら、今の私のように毎日忙しくて、シャキッと真っ直ぐに立ったり、歩くことも困難な状態になってしまうと、果たして真理の軸に対して歪んでいるのが、傾いているのが自分なのか、それとも世界の方なのか分からなくなってしまい、最早そんなことを追及したり、見極めることなどどうでも良いという気分になってくると(いやこれは怠け者の言い訳ではなくてそうならざるを得ない性質のものなのだ)、要するに疲れ果ててしまうと、世界の嘘や誤魔化しがどれほど滑稽で非人道的であろうとも、それを不可避で選択不可の唯一の現実として受け入れざるを得ない精神になってくるからである。捕虜みたいなものである。それでは私は一体、何に捕らえられた捕虜なのだろうか。戦争じゃないのだから捕虜という言葉が適切でないとすれば、我々現代人の精神を、自由に考えさせたり飛翔させないように縛るものは何なのだろうか。資本主義の社会システムがそうなのかも知れない。誰もがそれぞれの階層に応じて、日々の生活や資金繰り、そして今以上に豊かにならなければならないという強迫観念に追い立てられて、人間が生きていく上で焦点を当てて見なければならない本当に大切で重要なこと、何か大きなものに対して盲目になってしまっているのではないかという気がする。そういう意味では時給千円ほどでいつ首を切られるかわからない生活の不安定な派遣社員も、上場企業の経営者で著名な財界人として知られている人物も、本当の世界の姿が見えていないという点では同様なのだと思われる。どちらも奴隷なのだ。捕虜なのだ。もっと言えば医師や弁護士もそうであろうし、政治家とて例外ではない。というよりも政治家や医師や弁護士、財界人などが世界の本当の姿を認めてしまえば「仕事にならない」のである。マスコミなどはその最たるものであると言えよう。マスコミは認めないどころか、偽りの世界を、その全体的な意識の波長を維持するための社会的な装置である。

そういう世界を私は一概に否定するするつもりはない。それはそれで確かに実体のある一つの世界の在り方なのである。そういう世界で何の疑問もなく、金儲けをしたり、恋愛をして幸福を感じられる人々を私は嫌味ではないが、うらやましいと思う。大衆蔑視のように思われるかも知れないが、そうではない。私にはどういう訳かそういう「適応能力」が根本的に欠落していて、それがこれまでの私の人生におけるコンプレックスであり、苦悩であり続けたのだ。決して自分を美化するつもりはないし、美化できるものなど何も持ち合わせてはいないが、私は自分のその欠落を埋め合わせるためにオウム真理教のような新興宗教に走ることを一貫して拒否するある種の明晰さを持つほどに不幸な人間だとも言える。私は私の欠落や明晰さを、社会の中でうまく活かしていこうなどとは微塵も思わない。それは途轍もなく恥ずかしいことである。少なくとも私にとっては。ならば私は、私の人生で一体、何をしたいのか。何もしたくはない。生産性のある資本主義社会の優秀で有能な戦士にはなりたくない。なぜならそれは虚構の世界における捕虜に過ぎないことを、私は恐らくはこの世界に生まれた瞬間から知っていたのだ。

私は天気の良い春の日に、どこかの植物園でたくさんの植物に囲まれながら本を読んだり、世界の真実について思索に耽りたい。あるいはクロード・モネのように日がな一日、水辺の睡蓮の花を眺めてぼんやりしたい。世界は陰謀に満ちている。しかし陰謀について具体的に書くことは、正直な所とても恐ろしい。なぜなら笑われるかも知れないが、私は超自然的な存在に余計なことを言うなと監視されているような気がしてならないからだ。ああ、時間を無駄にしてしまった。仕事に戻らなければ。私は毎晩、11時まで仕事をしていて疲れているのだ。

大丈夫ですは、大丈夫なのか。

レジ袋の話しはまだ続く。ある日のこと、近くのコンビニで買い物をしてレジで並んで待っていた時に、前で会計をしている20歳代の女性が、店員から袋は要るかを聞かれて、「大丈夫でーす」と答えている場面を目撃した。私はその「大丈夫でーす」という答えが気になって、何で「要らないです」と言わないのかと思ったのである。大丈夫ですとは、言うまでもなく私は袋を持っているから大丈夫です、つまりは要りませんという意味だ。要らないと言えば強い調子の拒否になってしまうので、柔らかく婉曲的に断る日本的とでも言うのか、若者や女性に多く見られる言い回しである。私がその言い方が気になったのには理由があって、最近コンビニの店員は日本人ではない外国人労働者が増えてきていて、その時の店員もタイかベトナムミャンマーかわからないけれど東南アジア系の外国人であった。それでとっさにそういう日本的な婉曲拒否の言い回しが外国人の店員に通じるのであろうかと心配に思ったからである。しかし店員はその女性客に聞き返すこともなかったので理解できているのである。どれだけの期間、日本に滞在しているのかわからないが、優秀だなあと妙に感心してしまったものであった。それでさらに私は考えるのだが、大きなお世話かも知れないが、今の時代、我々の身の回りの日常生活は、嘆かわしくも悲しい現実ではあるが、詐欺とか騙しに満ち溢れているでしょ。こういう時代に本来、肯定的なニュアンスの大丈夫といった言葉を拒否に用いるような婉曲的な言い回しは、その切り取った部分的な言葉の意味合いに付け込まれたり、悪用されたり、トラブルになったりする可能性があるので出来るだけ控えた方がいいのではないかということである。もちろん親しい間柄の信頼できる相手に対して、婉曲的に断らなければならない場面もあるであろうからそういう表現のストックを頭の中に入れておくことは必要なのであろうが、初見の相手や電話やメールに対する対応としては中途半端でどちらにも都合よく解釈できる言葉や表現は百害あって一利なしという気がする。本当に今の時代は、押し売りとか押し買いとか、詐欺や詐欺紛い、そんなのばかりである。たとえば個人的な例で言っても、私が仕事をしている会社の事務所には毎日のように様々な営業の電話がかかってくる。そういうのに一々、丁寧に相手をしていれば仕事にならないのである。今はちょっと忙しいからとか曖昧な断り方をしていれば何度でも電話を掛けてくる。だから私は、仕事中に営業の電話をしてこられると迷惑だとはっきりと言うようにしている。迷惑です、あなたがしている事はあなたにとっては仕事でも、私にとっては迷惑行為ですとはっきりと言ってしまえば、相手はそれ以上何も言えなくなってしまう。そこまできつくは言いたくないということであれば、これもよく私が使う手であるが、内容を文書にして送ってくれと言う。時間がある時に目を通すからと。嘘で言っている訳ではない。本当に文書で送ってこられれば目は通すつもりである。そうすると相手は、大抵は電話を掛けるだけの仕事で雇われている派遣社員なのでそれ以上何も言えなくなってしまうのである。ひたすら営業の電話を掛け続けるだけの職種の派遣社員を馬鹿にするつもりはない。しかしそういう職種や派遣社員の存在が、日本経済の生産性を向上させたり、日本人労働者の暮らしを豊かにさせるとは私には

到底思えないのだ。そういうことは機械でもできることではないか。つまりは人間的ではないということだ。人間的でない人間の振る舞いに付き合わされることは、はっきり言って鬱陶しいだけなのである。

それからついでに言えば、今の日本社会は成りすましの詐欺や個人情報の流出みたいなことばかりで、本当に一瞬の油断もならない毎日だが、何も有名企業の正当な経済行為であるから信用できるというものでもない。そういうことも本当は私のような50歳代後半のような世代は若者たちに教えてあげないといけないと思うのだが、資本主義社会は国全体の経済力が衰えていくほどに、弱者に対して冷淡という以上に冷酷になるものだ。たとえばクレジットカードを発行している新興の企業は、若者をターゲットにポイントとして三千円や5千円の金を進呈するからとしてリボ払いの登録を執拗に勧めてくる。銀行に金を預けても金利が0の時代に、リボ払いで年利20%近くも、それも収入の少ない若者に負担させれば、いずれは破綻するのは目に見えていることではないか。クレジット会社やネット系の販売企業にとっては、物販の手数料収入よりも一括支払いをリボ払いに変更させて得られる金利収入の方がはるかに確実で手っ取り早く利益を増やすことができるからである。しかしその収益システムはあくまでも弱者の生活苦や家計破綻を前提にしたビジネスモデルであろう。私に言わせればそういう商売のやり方は合法的であろうと、有名企業であろうと詐欺紛いというか広義の詐欺なのである。ところが国はそういう商売のやり方にいつまで経っても規制を掛けようとはしない。社会問題であると認めないのだ。そして風が吹けば桶屋が儲かるではないが、若者の一部は「勝ち組」になろうとして振り込め詐欺に関わるような悪循環になっていく社会構造が構築されゆくのである。そういうことも前回私が述べたように日本には政治が存在しない、政治が管掌すべき経済システムに良心が存在しないというところに根本的な原因があるように考えられる。

袋はどうされますか

細かいことだけれど、最近ではレジ袋が有料化になったということで、スーパーやコンビニで買い物をした時にレジで、袋がいるかどうかを聞かれる。「袋はどうされますか。」と店員は会計をする度に客に聞いている。一日に百回聞いているのか、二百回なのか、私が店員の立場なら、その負担だけでノイローゼのようになってしまって、毎夜それこそレジ袋を頭に被って寝ているかの悪夢にうなされることであろう。それで思うのだが、客はそう聞かれることがわかっているのだから、聞かれる前に言ってあげればよいではないか。それが客としてのマナーと言えるかどうかはわからないが、多分、マナーではないであろうが、それぐらいの気遣いがあってもいいではないかと常々思っている。だから私は毎回聞かれる前に、要らない場合は「袋は要らない」と言い、要る時には「袋をください」とはっきりと言う。ところがレジで並んで見ているとほとんどの客は聞かれてから答えているのである。レジ待ちの時間短縮のためのせっかちで言っているのではない。店員の「袋はどうされますか」の質問と客が答えるまでの間に要する時間など僅か3秒程度であろう。いくら私が大阪人であるからと言って、省略できる3秒程度のやり取りでイライラしたりはしない。そうではなくてもっと哲学的な問題である。哲学というか、意識と現実の関係性に対する私なりの洞察なのだ。どういうことかと説明するに、聞かれることがわかっているにも関わらず、聞かれた後にしか答えないという人間の習慣というか、日常の現実に対する態度は恐らくはレジ袋がいるかどうかに限ったことではないと思う。全てに共通していることであろう。ある事が現実に発生することが事前にわかっていても、実際に発生した後でなければ、その事について具体的に思考の焦点を結ぶことができない。どれだけ蓋然性が高くとも可能性の世界は、或いは言葉として発せられる以前の世界は、現実とは認めないというある種の意識状態がそこにはある。たとえば未婚の女性がいるとして、今ここで女の気持ちがどうのこうのという例えを持ち出すと、また女性問題のようになってしまって話がややこしくなるかも知れないが、身近に気になる男がいるとしよう。何となく気にはなるが、自分がその男のことを好きなのかどうかはよくわからない。ただその男が以前から自分に対して好意を抱いているであろうことはわかっていた。そしてある日ついにその男から愛を告白される。女は男から告白されたことによって、それまでの告白以前の現実とは隔絶したように世界が劇的に変化することを知るであろう。そうして初めてその世界の住人となることによって、男を恋人として選んで交際するかどうか、それとも他にも気になる男がいるので態度をはっきり決めずに保留にするかといった思考の対象、つまりは受け入れるべき新しい現実となるのである。このような愛の告白といった話しであれば以前と以後の変化について、ロマンチックであるがゆえに誰もが納得できることであろうと思われる。またそういうことであれば男にとっても女にとっても人生そのものも変える可能性がある重大事なので、意識の上で以前と以後の世界が分断されることはやむを得ないことと考えられる。しかし当たり前のことだが、人生の現実はそのようなロマンチックなことだけで成り立っている訳ではない。私の人生がそうだからという訳ではないが、99.9999%はどうでもいいような無味乾燥の質問や選択によって日々、構築されている。スーパーやコンビニのレジで袋が要るかどうかを聞かれることもその一つであろう。反対に言えば、店員からレジ袋の必要性の有無を聞かれることも哲学的に考察すれば、愛の告白の数十万分の一の衝撃で、それ以前とそれ以後において現実は跳躍するように変化しているのである。変化というか微妙に横にずれているのだ。未だ実現していない可能性の領域に留まっている事象もある意味では無数にある現実の一つである。受け身ではなく積極的に無数にある現実のどれか一つを選別するということは不可避的な運命というよりは、意識と習慣による問題の割合が大きいのではなかろうか。極論して言えば、私のように店員から聞かれる前に袋は要らないとか、下さいという意識と習慣の方が、科学的には何のエビデンスもないが、恐らくは詐欺被害に遭ったり、不慮の交通事故に見舞われる可能性は小さいのである。蓋然性の高いことやそうなることがわかっている事象を漫然と時間の流れに乗せるか、自分の意識の力でコントロールしようとする意志があるかの違いがそこにはある。そういう微妙な差異によって、現実がどこにずれるかの座標が決まると考えられる。現実とはどこまでも冷徹な現実であると同時に、意識によって生み出される幻影でもある。政治のリスク管理に関しても言うまでもないことである。日本の政治がコロナの対応に対して後手で被害を収束させる力を持ち得ていないと批判されているが、なぜ後手になるのかと言えば、100%の確定した現実でなければ、たとえそこに80%の蓋然性(リスク)が存在するとしても、残りの20%に対して、つまりはそうならなかった場合のもう一つの現実に対して、誰かが責任を取らなければならないからである。そしてそれはどれほど高学歴で頭が良くても、官僚や役人にはできない「賭け」なのだ。官僚や役人は本質的にギャンブルをしないし、またできない。だから本来はその不足や間隙を埋めるためにこそ政治家は存在するのだが、日本の政治は今更指摘するまでもないことだが、官僚が作成した原稿を読んでいるだけの有様なので、形式的な政治の外観だけで政治の中身は何もないのである。政治家はたくさんいるし政治資金も膨大に費やされているが実は政治が存在しない。それが日本の実態である。これは菅さんだけでなく安倍さんでも誰でも基本的には同じである。また自民党がどうのというよりも野党などはもっと酷いもので、運営能力以前に政権批判を見ていればわかる通り幼稚そのものである。そもそも政治がないのだから与党も野党もないのだ。

新型コロナやその変異種が拡大する脅威とは、店員が客にレジ袋が必要かどうかを聞くように、そのような脅威や犠牲が世界の存続に必要かどうかを人類に問い掛けている質問であり、答えでもある。

女と女性

女。女の一生、女の道、酒と泪と男と女

忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに包まれたときに、

歌詞はどうでもいいのだけれど、女。前から思っていたことだが、どうしていつからか、女という言い方は蔑称に変わったのだろうか。女と言わずに、女性と言う。これは恐らくはマスコミが作った用法である。TVのニュース報道を聞いていればわかる。男女区分を述べるときには、通常は女と呼ばずに女性と言うが、犯罪容疑者になった途端に女という蔑称に降格する。36歳の女Aは内縁の夫を包丁で切り付けて殺害しようとした疑いで逮捕された。社会的には女は、女性から落ちこぼれた、或いは女性になり切れない生き物なのであろうか。私はその用法は気持ち悪いと感じる。いや、気持ち悪いというよりもその用法をマナーとして押し付けられているようで不愉快なのだ。暗黙に女という言葉に、女に対する男の差別が内在していると措定されているような気がするからだ。言葉そのものには罪はないだろう。言葉は本来、自由なものではないのか。解釈が、社会的に強者の立場にある者の恣意的な認定が罪を作り、弱者をより一層に不自由にしようと企んでいるのだ。その構図が私は不愉快である。世のため、人のために生涯を捧げたマザーテレサのような聖なる女性も女なのだし、我が子を虐待して殺害するような鬼畜な女も犯罪者であっても一人の女性である。女に性がつくか否かで悪か善かというような単純な思考回路の区分が私には恐ろしくも気持ち悪い。男と男性の用法も同じだから平等ではないかという声が聞こえてきそうだが、平等がどうかという問題ではない。平等でさえあれば正しい、そこに問題はないという思考自体が問題ではないのかということだ。男と男性の用法は、女と女性に平等にするために並置されたものだと考えられる。全ての男が女から生まれたのと同様に、最初に女という言葉の蔑称化があったはずである。言葉の強制力で社会を操作しようとすることは恐ろしいことである。その行き着く先は、性別の区分そのものが不必要であるという認識である。今日の産経新聞夕刊に、「願書から消える性別欄」として、トランスジェンダーに配慮して公立高校の入試願書から男女を問う性別欄を廃止する動きが、近年全国で加速化しているとの記事が一面で掲載された。学校や公的な機関がトランスジェンダーに配慮するのは良い。身体が男で心が女であったり、或いはその逆であって公的な書類に性別の表記をするのが苦痛であるというのであれば、その人は空欄にすればよいという千葉県や東京都の判断は健全であって、大阪や京都のように性別の区分表記そのものを廃止することは、最終的に心身ともに一致した女や男であることが、罪深い存在であるという認識に流れ行く指向性が伏在しているように感じられる。ここには間違った平等意識と見かけの歪んだ平等を作り出す社会操作がある。トランスジェンダーに配慮するために何で男女の区分を消去しなければならないのか。一部のトランスジェンダーの人を前にして、私は女です、私は男ですと多数の男女が公的に宣言することは、許されない、または必要のないことなのであろうか。公的に消去するということは、その区分が、心身の一致した純粋な男と女が、つまりは人間そのものが悪だと断定していることと同じではないのか。文部科学省や役所の人間は、それは飛躍だと言うかも知れないが、十代の心の柔らかな若者に対する刷り込みや洗脳というものはそういうような手法で行われるものであるという理解と認識が重要なのである。確かに差別はいけないものであろうが、反差別を利用した大衆への意識操作は非常に巧妙である。そして巧妙であると同時に女性が善なる一般人で、女が悪の犯罪者だといったような単純思考の延長によって生み出されているので、言葉の定義、用法を通じた大衆全体の家畜(無思考)化とも深く結びついているようであり、陰謀論者の私にとっては今の時代の全世界を覆うコロナ禍とも関連しているように思えて非常に恐ろしい。

どうでもいいことだが、私は今アマゾン・ミュージックでジャニス・ジョップリンを聞きながらこの文章を書いているが、彼女の声には時空を超越したような力強い女性性が感じられて安らぐと同時にとても気分が良い。

イギリスと南アフリカ

イギリスと南アフリカか。

イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ・・・。わからん。わからんが、どちらの国にもBSL-4の研究施設がある。イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ、人種政策と優生思想・・・。わからんが、今の新型コロナウイルスは、そう簡単に月日の経過とともに自然と消滅してくれるような代物ではないように思われる。変異株は人為的に、人為的、人為的、人為的、人為的・・・超自然的に作られている可能性があるのではないのか。

そのようなことはあり得ない、あり得ない、あり得ない、絶対にあり得ないとまでは言えない・・・あり得る。人口増加、食糧問題、限りある地球資源、世界戦争への危機、一つ言えることは、日本もそうだけれど糖尿病や高血圧症などの基礎疾患のある人間の増加は、社会保障などの国家的な財政負担が過大であるということは、世界的に共有される問題なのではないのか。私の偏見かも知れないが、アメリカ人はジャンクフードやコカ・コーラのようや糖分の高いものばかりを日常的に摂取していて、肥満している人間の比率が高いので、コロナの感染者や死者数が突出して多いのではないのか。日本の食生活も今やかなり欧米化しているが、それでも和食は、魚介類や発酵食品の味噌、漬物、醤油などが主なので、肉ばかり食べている欧米人に比較すれば、元々の食生活が健康志向に出来ているということは言えるであろう。それと身体の大きさもウイルスの感染力と関係していると思われる。身体が大きければ、当然、肺活量と声も大きくなって、唾が飛沫となって飛ぶ範囲も広くなる。また日本人のお辞儀の文化というものは、二人が挨拶で向かい合ってお互いに礼をしたときに頭がぶつからない距離が、基本的なソーシャル・ディスタンスとなっている。抱き合ったり、頬を摺り寄せたりするようなことはほとんどしない。

まあそんなことは、どうでもいいのだがこのコロナの正体とは何なのかということである。そういうことは考えるな、新聞とTVの報道内容だけを信じていればよいのだと言われれば、確かにその方がある意味では平和で幸福なのであろうが。たとえコロナに掛かって死んでしまったとしてもである。人生とはそんなものである。無知は無辜であり、真実を探求することは罪深いことなのかも知れない。

エイズエイズエイズエイズウイルス。フォートデトリック。

エイズが新型コロナと似ている点は、どちらも何が原因でこのようなウイルスが自然界に発生したのか完全に解明されていないことである。仮に無軌道で放逸的な性行為の氾濫による堕胎や人口増加を抑止する目的でエイズが作られたのであれば、新型コロナやその変異種もそれと同様の思想なり目的のために世界中にばら撒かれているという考えは、危険であっても、無茶苦茶で全く道理の立たないものではあり得ないであろう。そしてそれは個々の国益とは無関係なのである。地球全体の未来のために人類がどのような決断を為すべきかという観点から謀られている超人道的な計画なり動向というものは、私はあってもおかしくはないという以上にあると思う。それに対して賛同するか、反対するかという問題ではない。世界のごく限られた一部の人間によって、地球や人類にとっての重大な決定が秘密裏に行われているであろうことは、あり得る、あり得る、あり得る、あり得る、あり得ることであり、それを万人があり得ないという一つの全体意識、社会報道体制によって、どのような悪事も行い得る土壌、環境が形成されているということである。

ところでコロナのワクチンはどう考えるべきであろうか。

ワクチン、ワクチン、ワクチン、ワクチン。

ファイザー、モデルナ、アストラゼネカ、ビオンテック。

ワクチンが市中に出回るようになれば安心感が出てきて状況は好転してくるのであろうか。今のこの状況で海外のワクチンは、私は心配である。副作用の可能性以前の問題として。国内製でよいではないか。アビガンとか。日本人と欧米の人間の体質や人種的な遺伝子の違いもあるであろうし、仮に何か問題が生じた時に、日本政府はその事実を外交問題になるなどと言って、間違いなく封印しようとするであろう。日本の政治にとって、日本国民の生命よりも外交問題になる危険性の方が重大であると見做されていることは誰にも否定できないであろう。もちろん日本製であるからと言って絶対に安全であるなどとは断定できないが、日本製のものであれば厚労省や政府が責任を持たなければならないので黙殺は出来ないはずである。安易に海外製ワクチンに頼るなと言いたい。アメリカやイギリス政府に抗議できないのであれば、その姿勢は無責任であるとしか言えない。

ワクチン、ワクチン、ワクチン。

イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ、イギリスと南アフリカ

新型コロナとエイズ、新型コロナとエイズ、新型コロナとエイズ

何で繰り返し唱えるのかと言えば、このように自分の内側に何度も問い掛ければ、それに対する答えやヒントが湧水のように出てくるからである。ソクラテスとかプラトンなどのTVや新聞、インターネットのない時代の賢人といわれた人々はそういう風に思考し続けてそれぞれの真理を導き出したのであろう。もちろん自分勝手な思い込みに陥ってはいけないが、現代人は、総じていえば自分の頭と魂で物事を追求しようとしないで、判断を外部の権威に依拠し過ぎるのだと思われる。だから簡単に騙されてしまうのである。それが自分や家族の命に関わるようなことであっても。

コロナに向き合う新時代の意識について

元日ではあるが、新年を社会全体の言いようのない重苦しい不安感で迎える一日というものは、その不安の連帯の中に、コロナで亡くなった世界中の多くの人々の命を犠牲としてでも、人間がこの地球上で平和裏に協調、共存して生きていくために必要な新しい価値観や社会、経済システム、行動原理などを、一人一人が真剣に模索していくための歴史的な出発点として、そこに神の啓示が秘められているように感じられるのは私だけなのであろうか。たとえコロナが存在しなくとも、地球上の人類が、今のグローバリズムによる資本主義経済を持続させていけば、いずれ近い将来に、それが5年後なのか20年先なのかはわからないが、人口過剰による食糧問題や水資源問題、気温上昇による環境破壊、世界的な経済格差の固定化、地域的な紛争の頻発から世界戦争への進展といったような形で、このコロナ禍と同様の、いやそれ以上に危険な状況に遭遇せざるを得なかったとは考えられないであろうか。もしそうであるとすれば、そのような地球規模的な人類の危機を回避するために、その可能性やそういう状況になった時の被害を軽減させるための、予行演習的な学習としてコロナは必要であったと見做すことはできないであろうか。単に考え方の問題だと言われれば、それまでだが、私にはそう思えてならない。その証拠と言っては何だが、たとえば日本においては、昨年の2020年はそれまでの数年間と比較して台風や大雨の被害が少なかったということを挙げることができる。ある意味ではコロナの被害がそれらの自然災害を代替していたので、それまで頻繁に起こっていた自然災害は「必要なかった」ということが出来るようにも思える。もしこれが、コロナと自然災害が重なって発生することが「必要」な事態となれば末期的とでも言うか、末法思想の顕現である。これは何も陰謀論として言っているのではない。陰謀論とか人工的に計画されたものであるかとかは、私に言わせればそれこそが副次的な考え方の問題なのであって、それ以前に目の前の現実というものが唯識論的に、我々一人一人の意識の、そして人類全体の意識の均衡の投影なのであるとすれば、この悲惨な現実を生み出している我々の意識、考え方というものがどういうものであるのかを、身体を解剖して内臓や血管の働きを調べるように、子細に分析してみる必要性があるのではないのかということである。またそのための学習の機会をコロナは我々に与えているのではないのか。

そしてそれは、それほど浮世離れしていて、形而上的で難解な追求ではないと私は思う。誰もが現実に即して、現実的に考えられることであるはずだ。たとえば私は日本人なので、日本の政治のコロナに対する対応の問題について考えると、次のようなことが言えるのではないのか。第一に日本の政治は、政治の意思決定に時間が掛かるというよりも、意思決定における「合意形成」に時間が掛かりすぎるので、コロナの感染者数のように一刻ごとに状況が変動するような事態においては、合意形成が為されるまでに取り返しのつかない事態に陥ってしまう危険性が大であるということである。これは日本人の意識とどのような関連があるのかと見るに、日本人や日本社会は元々、トップダウンのリーダーシップよりも時間をかけた丁寧な合意形成こそが正しい民主主義だと見做して、政治の質、在り方を規定してしまっているのではないのか。そしてそのような全体性がこのような有事の状況において足枷になっているように見える。端的に言えば、政治は時間を掛けて、丁寧に検討しているような外面性を装っていれさえすれば、やるべきことをやっているという動因となるのである。第二に、日本の政治は利害調整を特徴とするものなので、今回のコロナによる影響のように経済回復と感染の抑止であるとか、旅行、飲食業界の救済と医療への過当な負担、医療崩壊の危険性といった真っ向から相対立するといった、要するに利害調整の手の付けられない問題が発生すると、政治の機能が全くストップしてしまってその時々で何を優先させて、何を犠牲にするかという政治判断も実質的に放棄されたに等しい状態になってしまうということである。これも第一の「合意形成」と同様に、日本の社会が、日本の政治に対して民主主義とはどこまでも平等で公平でなければならないという考え方、意識を反映させすぎている結果なのではなかろうか。最後にこれも非常に重大な問題だと思われるが、日本の政治家、特にトップの総理大臣は、このような未曽有の危機に際して、もっと自分の言葉でメッセージを発して国民の心に訴えかけなければならないはずである。官僚が作成した原稿を朗読するだけであれば、はっきり言って政治家は不要なのである。どうして日本の政治家は選挙の時には喧しいほどに喋るのに、有事になると黙ってしまうのであろうか。それは日本の国民や国民の意見を代弁しているとされるマスコミが政治家の発言の無謬性や前後の無矛盾性を求めすぎるからだと考えられる。当たり前のことだが政治家は人間(それも決して優秀とは言えない能力の持ち主)なのだから、間違いがあったり矛盾があっても当然なのである。特にコロナのような状況は刻一刻と変動していくのであるから、政治家が判断の間違いや発言の矛盾などの責任を追及されることを恐れて、自らの考えや判断を発言しなくなるということが本当は日本全体にとって多大なマイナスなのである。結局、日本の政治は、マスコミの報道も含めて、ある意味では日本の国民の意識が作り上げているとも言えるのであって、この意識と現象というものを敷衍して全地球的に考えるならば、新型コロナウイルスの出現というものも、私は個人的には到底、自然発生したものであるとは考えられないが、人類全体の意識を変革するために出現したのであろうということから考えれば必然なのであって、それが2020年であったということも後付けではあるが、そこにはある種の適合があるように感じられるということだ。

新しい世界

朝目覚めて、別の世界に彷徨い込んでいることに気づく。

昔見たTVドラマの

ここはどこ、私は誰、というセリフが頭をよぎる。

私はドジでのろまな亀。

ああ、これは別のドラマか。

ともかくも何かが違う。ごく微妙にではあるが。

昨日まで慣れ親しんでいた世界と、何がどう違うのであろうか。

私はゆっくりと慎重に

昨日と今日の二つの世界における差異の徴を

生活の中に探し求める。

先ず念のためにカレンダーを見て、今日の日付を確認する。

1980年代にまでタイムスリップでもしていたら

大変なことだ。

ニーチェのいう永劫回帰のように

時間を遡って同じ出来事を延々と繰り返すことは

うんざりである。

このような人生を何度も繰り返すことに、

何の意味も、価値もない。

それだけは御免蒙りたい。

2020年12月27日、日曜日。

間違いはない。

日付は合っていても、世の中に発生している事象が

すり替わっているのかも知れないと

新聞の一面を見る。

「あすから来月末まで、新規入国一時停止」か。

コロナ禍の世界であることも変わりはないようだ。

インターネットで新規コロナ感染者数の推移を確かめてみても

私の記憶にある状況と何の矛盾もなく

きれいな曲線で連続しているように見える。

部屋の中に雑然と置かれている服や本、鍵や携帯電話

ベランダから取り込んだ洗濯物、椅子や机の配置を点検してみても

おかしなところは何も感じられない。

それでは一体何が、変わっているのであろうか。

別の世界に彷徨い込んだかのような、

この違和感の正体は何なのだ。

何かがおかしい。

昨日までとは確かに何かが違うのだ。

冷蔵庫に収納しているドリンク類や

ゴミ箱の中身まで探ってみても

昨日と寸分違わずに答えは見つからない。

しかし、ついにわかったのである。

不思議なことではあるが、

これまでの人生で、生きるということに

私の魂が感じ続けてきた

苦痛や悲しみが、完全にという訳ではないが

消えて、なくなっているのである。

今、私が見ている世界は、物質的には昨日までと

同一であるように見えるが

確かにもう一つの別の世界である。

それを自覚するまでに

ここまで手間が掛かってしまったということだ。

人は言うかも知れない。

世界は一つである。

それは、あなたが変わっただけだ。

あなた自身が変化したから

別の世界に流入したように錯覚しているだけであると。

果たしてそうであろうか。

私にはそうは思えない。

私は本質的に変わり得ないし、

また変わる必要もないのだと思う。

私が一夜にして蛹から羽化した蝶のように変化することなど

あり得ないことだ。

私が、いや我々が外部に見て認識している対象は

唯一性の物そのものや、事象それ自体ではない。

物や事象の波動を感受して、自己と世界との相互作用の中で

自分が存在するに相応しい世界を

無意識に選択しているのだと思われる。

生きることに苦しみや悲しみを感じることは、

単一の世界に対する、私の個的な反応ではなくて

私がそういう世界を

ある意味では自らの必要性によって

投影し、作り上げている結果なのであろう。

私は死んで、生まれ変わったように

新しい別の世界に参入した。

しかし私の個性は何一つとして

変わってはいない。

なぜそうなったのかは、わからないし

今日だけではなくて、

今までに何度もそのような世界の横断を

無意識に繰り返してきているのかも知れない。

眼前に拡がる風景は

物質的には同一の組成でも、霊的には

僅か数ヘルツの周波数が異なる

別の世界だ。

新雪で覆われたような

その穢れなき、純粋な大地に

恐れおののきながら、

祈るようにそっと

第一歩を踏み出す。