龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

左翼の正義が日本にもたらすもの

会員になっているスポーツジムには自転車で行っているが、その途中でジムの最寄駅を通過するときに、いつも決まった場所にビニール袋やダンボール紙を巻きつけて寝ているホームレスを目にする。もう私がその場所で見掛けるようになってから1~2年は経っているので、その場所を定住の場としているようである。駅の出入り口付近で駅構内にあるパン屋の壁面になっていて、大きな交差点のすぐ近くでもあるので乗降客や私のような自転車で通過する人間が密集して、邪魔と言えば邪魔なのだが、誰も文句も言わずに目には見えない物質であるかのように気にも留めずに素通りしてゆく。私は大体、仕事が終わってからジムに行くことが多いので夜に横たわっているホームレスを見ているので、昼の時間帯はどこかに移動しているのかも知れないし、空き缶拾いなどの仕事をしているのかどうかはわからないが、当たり前のことではあるが夏は暑いし、冬は寒い路上生活でよくも生き延びているものだなと感心して見ている。定期的にジム通いをしてランニングで身体を鍛えている私などより、そのホームレスの方がよほど体力があって、免疫力も高いのではないかなどと考えてしまう。ホームレスの生存能力や環境適応性はともかくとして、どうしてホームレスの人間は何年間もの間、或いは何十年間もそのような過酷な路上生活を送り続けなければならないのであろうか。日本では憲法第25条において生存権というものが認められていて、全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有することが定められているものである。ホームレスの人々は、自らの境遇が憲法違反であると国を相手に訴える力もないから路上生活から脱却できない訳であるが、無数の人々の目に晒されるようにして生きているのであるから、仮に千人に一人でも、一万人に一人でも不憫に思って、自立できるまでの当座の間だけでも自分の家に招いて寝食の場を提供するような奇特な人間が存在するのであれば、日本からホームレスは一人もいなくなるはずである。しかし現実にはそうはならない。その理由は敢えてくどくどと説明しなくてもわかるであろうが、衛生上の理由だけではなくて、家に招く人が女性であれば、見知らぬ男をそれも長年、社会から隔離しているような者を自分の家の風呂に入れさせて、食事や寝る場所を提供するようなことをすれば、襲われる危険性が高いと考えることは当然であろう。招く人が男であっても、性的な危険性はなくとも、目を離している隙に金や腕時計などの貴重品を盗まれるかも知れないと誰もが心配するであろう。もちろん私だって見知らぬホームレスと一緒に生活することは嫌である。それは差別や偏見の問題だと言えるであろうか。世の中の社会問題のほとんどは、一個人の善意や良心では決して解決し得ないものである。

先日の台風19号の被害で避難所にホームレスの人間が入所を拒否されたことが、一部で問題視され報道されていた。ホームレス側とすれば災害で多くの人々が自分と同じか、それに近い状態に陥っているのであれば、一人の人間として同等の権利を主張する絶好のチャンスだと考え、ここぞとばかりに風雨を凌げる避難所での生活や食べ物を要求することは、ある意味では当然のことなのかも知れない。彼らの過酷な境遇を考えれば、その発想、要求を批判することはできないであろう。しかし家や財産、人によっては家族の命を失って心身ともに限界に追い込まれている、それまで「普通」の日常生活を送ってきた人々を閉鎖された空間でホームレスの人間と一緒にさせることが行政としての正しい判断なのであろうか。どうして平時においては当たり前のように見捨てられてきた人々が、災害時の避難所への入所拒否だけは、人権問題として取り上げられなければならないのか。私は左翼の、そのあまりにも左翼的な主張が許せないものである。避難所には、小さな子供たちや赤ん坊もいる訳であろう。大人や老人たちも生きる気力を失いかけているのに、そういう人々を不衛生でそれまで社会から隔離されて生きてきたホームレスと一緒の空間で生活することを強要する主張は無茶苦茶である。どうしてもそれを社会問題、人権問題として取り上げ、報道したいのであれば、先ず、マスコミが自社社屋や保有する施設内でホームレスの人々を受け入れて、保護する行動を起こすべきである。新聞社や放送局は民間企業ではあるが、一応の建前では公共性、公益性の高い組織として国家的にも優越的な地位と影響力が付与されているのであるから、市民が一個人として解決したり、問題提起できないようなことも、政治や世論に働きかける立場にある。よって口先だけでホームレスの避難所入所を批判するのではなく、人道的な救済活動を自ら組織的に実施すべきは当然である。その上で人権問題として広く問題提起なり報道をすればよいではないか。放送局、新聞社などの大手マスコミには、ホームレスを受け入れるだけのスペースなり、最低限の食事を与えるだけの財力もあるのだから、むしろそうしない理由がないとさえ言えるのではないのか。ここにおいて何よりも許せないことは、あまりにも左翼的な思考様式であるとか精神性というものが如実に現れていることである。一口で言い表わせば、それは主張のための主張に終始しているということだ。目の前の特定の状況、問題だけを全体性から分離、分断して、その場だけに通用する正義や正当性を主張し、批判する。それが日本の左翼の特徴なのだ。その主張内容や正義が、全体的にどのような不均衡な結果をもたらし、一部の人々に過度の負担を背負わせたり、不快感を与えることになっても、全く頓着しないと言うか、全体から見た矛盾や不整合を歯牙にかけない姿勢を一貫させている。部分的に分断した状況の正義が左翼の全てなのだ。当然、その結果に対しても日本の左翼マスコミは責任を持とうとはしない。主張すれば主張しっ放し、批判すれば批判しっ放し、後は野と成れ山と成れ、わしゃ知らん、それが日本の左翼の基本的な精神構造である。また日本の左翼は、結果的に弱者により一層の負担を押し付けているものである。左翼は権威や権力を批判することはあっても、実際には左翼そのものが誰よりも腐敗した権威主義者なのであって、本当の意味では弱者の味方ではない。それがわからないのは、そういうことを見抜くだけの知的能力がないだけの話しである。ホームレスを都合よく持ち出して弱者の立場に立っているように見せかけながら、実際には災害で被災した人々にさらなる負担や不快感を与えることに対して何の疑問や痛痒も感じてはいない。それが日本の左翼の本性なのだ。本当に日頃から社会の現状に問題意識を持ったり、考えている人間であれば、ホームレスの件に関しても軽々しく人権問題として行政批判などできないはずだ。日本の左翼は恥知らずなのである。愛知県のトリエンナーレも同じではないか。大村知事や朝日、毎日新聞がいかに表現の自由の大切さを主張したとしても、一方では週刊ポストの韓国特集については嫌韓だとして表現の自由を抑圧する姿勢であろう。そこにあるのは分断、分離された近視眼的で狭小な正義だけで、全体的な統合や整合性は全く無視されている。その矛盾に対して自らの言葉で説明しようと言う意識もない。これでは日本の左翼は、論理的に瑕疵があるというだけではなくて私に言わせれば、動物的なのである。今、目の前にある餌に食らいついているだけなのだ。その餌がイデオロギーや社会的な正義で装われているから、見掛けは高等に見えているだけのことである。日本人よ、動物に堕すなと言いたい。